第1132日目 〈山川直人『澄江堂主人』を読みました。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 橋本武著『〈銀の匙〉の国語授業』(岩波ジュニア新書)が活性剤となって、中勘助の『銀の匙』が再び読まれるようになった。中勘助は夏目漱石に推奨されて世に出、幾作もの忘れ難き作品を遺して逝った人だが、もう一人、同様に漱石の推奨を承けて世に出て短くも華々しい足跡を残した人がいる。
 教科書でお馴染みの『羅生門』でデヴューし、幼き頃に読んであざやかな思い出をいまでも残す『トロッコ』や『蜘蛛の糸』、『杜子春』を書き、もしくは『或阿呆の一生』や『西方の人』、『侏儒の言葉』など殆ど現世から離脱したような風の作品を遺して逝った作家――即ち、芥川龍之介である。新潮文庫版の作品集を高校生の時分に毎月一冊ずつ買ってゆき、半年強に渡って楽しませてもらい、一時は鏡花か荷風か芥川か、というぐらい熱に浮かされて読み耽った過去がわたくしにはあるが、実をいうと齢を重ねてゆくにつれていちばん読まなくなっていった作家の最右翼でもある。
 わたくしのような平井呈一フリークにとっては“聖典”ともいえようか、岡松和夫の『断弦』(文藝春秋)は主人公が芥川に擬した作家の弔問に訪れた場面から、本編が始まる。南木佳士の『阿弥陀堂だより』では主人公が高校時代に芥川を読み耽り、畑仕事をサボったりしている。そうしてコミックの分野にも、芥川を登場させた作品が存在する。
 登場させた、というのはちょっと生半可な表現かも知れない。それは芥川の後半生を漫画という形式でたどった、しかしちょっとだけ改変を加えてある作品なのだ。鋭い方はここでわたくしが挙げようとしている作品に察しが付いたかもしれない。山川直人の最新作『澄江堂主人』全三巻(エンターブレイン)がそれである。
 わたくしはなにかの拍子にこの人の活躍を知って、試しに手を出してみたらテもなくやられてしまって、爾来たかだかまだ5年の追っかけでしかないが、たまさかしかない新刊の発売を鶴首して待ち、挙げ句は中野にある自費出版専門店まで出掛けてこの人の本を探したことも二度ばかりある。代表作に『コーヒーもう一杯』や『ナルミさん愛してる』、『シアワセ行進曲』など。いすれもエンターブレインより。
 さて、『澄江堂主人』であるが、澄江堂とは芥川の書斎の号。題名はそのまま芥川自身を指す。描かれる芥川は自殺の妄執に囚われ、創作に殉教し、シニカルだけれど小市民的な横顔を持つ。そうして職業は漫画家である。
 ……漫画家? 然り、漫画家である。ちょっとだけ加えられた改変、それがこの点だ。ここでは芥川の周辺にいる文学者たちが皆、漫画家という職業を務めている。作者にしてみれば自分のテリトリーに引き摺りこんだ、そうしてこれまで幾作も描いてきた漫画家(の卵)を主人公に据えた作品と同系列にある『澄江堂主人』であれば、主人公たちの職業を漫画家に仕立てるのも道理か。
 前編の刊行から約二年後の先日、中編と後編が同時発売されて恙(つつが)なく全三巻が完結したいま、再びゆっくりと、時間を失いながら一コマ一コマ、台詞の一つ一つ、なによりも山川作品のキモでもある線描の細かな<絵>(畳の目一つ一つを書くのにスクリーントーンに頼らないのだ、この作家は!)をじっくりと楽しみながら、読みこみながら、骨までしゃぶり尽くす勢いで再読を試みたい、と、わたくしは本気で希望している。
 ツボだったのは借金を申し込みに来た内田百閒の初登場シーン。暗闇から生まれたかのようにそこにたたずむ百閒は、可愛らしくも憎たらしい。また、先に出た平井呈一つながりで一つ添えれば、芥川と室生犀星、かかりつけの医師下島勲が会して漱石の思い出や谷崎との論争など談じているなかでお茶を飲みつつ、ぱくぱく食しているのは「うさぎやの最中」である。平井翁とうさぎやは切っても切れぬ関係ゆえ、どうしても連想が働いてしまう(※)。
 個人的に印象深く、作品全体を統一する場面と思うたのは、芥川の葬儀が終わった夜、妻フミが亡き夫の傍らに来て呼び掛けるシーンであった(「お父さん/やっと死ねましたね/お父さん/よかったですね」)。
 今年最後に、実に良い漫画を読んだ。もう今年に思い残すことはない。□

※:ご興味のある向きは、紀田順一郎『永井荷風』(リブロポート)や荒俣宏『稀書自慢 紙の極楽』(中央公論社)、東雅夫編『真夜中の檻』(創元推理文庫)解題などお読みいただければ幸甚。

追伸:原稿執筆中に『澄江堂主人』を読み返し、読み耽ってしまうことしばしば。為、更新時間が常より遅れてしまったことにお詫び申し上げます。◆

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