第1134日目 〈ラトル=ベルリン・フィルのブラームス交響曲全集を聴きました。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 ラトルって良いな。そう思えたのは2010年に一部の映画館で上映された「シネ響 マエストロ6」でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(独奏:ラン・ラン)、チャイコフスキーのバレエ組曲《くるみ割り人形》を観たときだった、と記憶する。それ以来、頻度は他の指揮者に較べれば少ないけれど、ラトルのCDを機会あれば捉えて耳を傾け、映像あれば時間を作って鑑賞し、そうやって徐々に、わたくしのなかのサイモン・ラトル像は修正されてゆき、偏見から普遍の方向へ舵を切った感がある。
 いちばん最近になって聴いたのは、ベルリン・フィルを指揮したブラームスの交響曲全集である。これは2008年の録音で、国内盤がリリースされたのは翌2009年。最近になって聴いたというにはちょっと遅いけれど、、ここは一つ御寛恕願いたい。ちなみにこれは現在わが陋屋に蓄えられて、今日に至るも処分を免れて残るブラームス交響曲全集のなかでも最後から二番目の新顔で、ここ数年で新しく手に入れた内ではいちばん再生される回数が多い。
 これまでブラームスの交響曲全集は星の数程も作られ、事実ベルリン・フィルにとっても果たしてこれまで何人の指揮者と組んでブラームスに取り組み、全集を市場に供給してきたか、ちょっと見当が付かない。ラトルが常任に就任して2期目のシーズンに当たる2008年、ようやくブラームスをEMIに録音した事実は、それだけベルリン・フィルの伝統にブラームスの音楽がしっかり根附き、それなりの覚悟なくして取り組むこと能わず、というところだったのであろうか。
 そんなあれやこれやの推理ごっこはともかくとして、わたくしはこれをブックオフの棚で定価の1/3程度の値段で発見、財布の中身と相談した上で購入して陋屋に持ち帰り、飽きることなく再生して付属のDVDも折節観ては、自分がいつの日かこれを生で聴くことはあるのだろうか、と想像して打ちひしがれ、とにかくそんなこんなで日々を過ごす過程でラトル=ベルリン・フィルのブラームスが段々と特別な位置を占めていったのは否むことかなわぬ事実である。
 ゆえに贔屓の感想となってしまうが一言述べれば、全4曲のなかでわたくしが最も好いたのは交響曲第2番である。明朗闊達な、ブラームスらしからぬ健康的で陽光に溢れたニ長調の交響曲を、こんなにうれしい気持ちで聴いたことは久しくない。
 第3楽章の長閑なレントラー風の音楽に心は浮き足立ち、気も漫ろにさせられ、第4楽章の、最後の最後で爆発する歓びのファンファーレに随喜の涙を流し得る演奏と出会ったことなんて、コンサートでもレコードでもそうそう滅多にあるものではなかった。
 ――全曲が終わったあとでふいに訪れる静寂の時間に目を閉じ、口のなかで「ありがとう」と呟くことの出来る演奏なんて、生きていて出会えるかどうかわからぬ類のものだ。が、わたくしはこのラトルの第2番に(世評はどうあれ)それを見出した。我ながら大袈裟であるのは百も承知だ。でも、そんな風にしか自分の感想を、思いを、素直に表明できないでいるのは、最早性分である。お許し願いたい。その気恥ずかしさを敢えて隠して、このニ長調の交響曲の感想を一言でまとめあげるなら、「人気の絶えた鄙びた温泉の露天風呂に昼間から浸かってぼんやり青空を見上げているような気分」というところか。
好みでいえば、その次に良かったのは第3番である。最初と最後の曲については五十歩百歩、ラトルの気質とは反発しているように思うた。◆

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