第1165日目 〈エレミヤ書第51章1/2:〈諸国民に対する預言〉6/6withバイブル・アトラスが欲しい、のだけれど……。〉 [エレミヤ書]

 エレミヤ書第51章1/2です。

 エレ51:1-58〈諸国民に対する預言〉6/6
 (承前)

 わたし主は滅びの風を吹かせる、バビロニアへ向けて、カルデア人に向かって。災いの日が訪れる。かれらは四方からバビロニアへ迫る。
 バビロニアを滅ぼし尽くさんとする者の手から逃れよ、イスラエルとユダは。わたしはお前たちにいう、「イスラエルとユダは/その神、万軍の主に見捨てられてはいない。/カルデア人の国には罪が満ちている/イスラエルの聖なる方に背いた罪が。/お前たちはバビロンの中から逃げ/おのおの自分の命を救え。/バビロンの悪のゆえに滅びるな。/今こそ、主は復讐されるとき/主はバビロンに仇を返される」(エレ51:5-6)と。
 イスラエルとユダはシオンに帰り、わたしの正しさと御業を語り継げ。
 わたしはメディアの王たちの霊を奮い起こし、アララトやミンニ、アシュケナズへ号令を掛ける。かれらはそれぞれ指揮官を立て、軍隊を率いて、命脈尽きようとしているバビロニアへ迫る。そうして町という町を攻め、砦を落とす。渡し場を奪い、沼地の葦を焼き払う。駆逐するその勢いは衰えず、バビロニアの兵という兵は戦き、怯える。かつてエルサレムを見舞った暴虐が、今度はバビロニアを襲う。
 やがて、帝都バビロンは占領されて廃墟となる。世界の覇者と思われていた国がここに滅ぶ(「混沌の海がバビロンに襲いかかり/バビロンは高波のとどろきに覆われた。」〔エレ51:42〕)。諸国はバビロニアを嘲り、辱める。諸国はイスラエルの神の言葉の真実なることと怒りの激しさを目の当たりにして、恐怖する。そうして、畏怖すらも覚えよう。
 わが民、わが民、剣を逃れた者たちよ。行け、ゆめ立ち止まるな。遠くからわたしを思い、エルサレムを心に留めよ。
 わたしはかならず仇を返す神。どれだけバビロニアが守りを固めても、わたしはかれらを滅ぼす者を遣わす。わたしはかならず報復する。

 「今や、多くの民の労苦はむなしく消え/諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。」(エレ51:58)  

 他の民族はなんらかの形で破滅することになるけれど、イスラエルはそうならない。そこに、神の意思があり、嗣業の民への救済が存在している。神はまだイスラエルを見捨てていない。一連の、諸国への預言の端々に、そんなメッセージを見出すことができましょう。
 アララトやメディアはそれぞれ、チグリス川西岸地域に覇権を築いた国家。それらが同盟を結んでバビロニアを滅ぼす、という内容の預言ですが、実際に新バビロニア帝国を滅亡させたのはキュロス王を戴くペルシア帝国であったこと、既に読んだ通りであります。
 ところで、バビロニアに「イスラエルの聖なる方に背いた罪」なんてありましたっけ?



 聖書を読むにあたって地図の必要性を感じるときがあります。「ヨシュア記」や「列王記」、「歴代誌」に於いて殊にそれは顕著でしたが、この「エレミヤ書」でも、ブログを再開した後半に至ってますます痛感するように。
 そこで先日(不毛なるクリスマス・イヴ!!)、用事あって東京へ出た序に山手線内の大型書店やキリスト教専門書店の何軒かに足を運んだけれど、捜索は徒労に終わった。意外とないものなのですね。落胆しました。
 なる程、聞き耳を立てていれば、キリスト者は聖書の地理的な記述にはさしたる関心がないらしい。それがどこにあろうとお構いなしで、単に事実として亡国は亡国を攻め、某町が亡国に占領された、という字面だけの記述で満足できてしまうようだ。
 まぁ、案外そんなものかもね。わたくしのようなものが寧ろ少数派か。
 ここは一つ、上田秋成に倣って「往々笑解」、と嘯(うぞぶ)いてみよう。呵々。◆

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