第1181日目 〈マーラー遍歴 2/2〉 [日々の思い・独り言]

 バーンスタインの二つの全集についていえば、あすこまで感情没入された、作曲家が憑依したようなマーラーには、ちと及び腰になってしまう。聴き終えたあとわたくしを待つのは、疲労困憊以外のなにものでもない。嫌味とまでは思わぬが、苦手である。SONYとDG、それぞれに録音された全集は、いまのわたくしには資料的要素がはるかに強い。
 SONY盤についてはレニー没後何年だかで分売されたものがある。都立や区立の図書館で借りたCD/LPは別にして、ようやく自分の手許へ長く置けるバーンスタインのマーラー。が、それは悪名高きプリンス・オブ・ウェールズのおぞましい笑顔がそらぞらしく映る上半身がバック・インレイに印刷されたエディションで、おまけに全曲は揃っていなかったように覚えている。こちらは震災の前の年、一思いに処分してしまったが、幸運とはあるもので昨年になって安価な、オリジナル・ジャケットを復刻したボックス・セットが出た。こちらは躊躇いなく購入。仮にあのまま持っていても、鞍替えは必然であったろう。
 まぁ、CDでバーンスタインのマーラーを聴くのはわたくしにとって労働だけれど、これが映像となると、逆にどっぷりと浸れるのだから面白い。知り合いから借りたり、県立/市立図書館で一度限りの鑑賞になったり、或いはクラシカ・ジャパンで偶さか放送されるものを録画したり、という程度だが、わたくしにとってバーンスタインのマーラーは映像の方がずっと付き合いやすい。視覚的意味合いもある。しかしそれ以上に、距離を保っている、という安心感があるのだ。どう表現してよいか、音だけだとわたくしの心も意識もすべてそちらに捕らわれて、その御前に傅(かしず)き、ただならぬ集中力と狂気の渦に呑みこまれて足場を失い、あたかも秘密結社の儀式に参列しているかのような気分になる。結果、無事に一曲を聴き終えた暁には(前述の如く)疲労困憊となるわけだ。
 翻って映像の方は、といえば、そこまでの疲れは感じない。すくなくとも、映像で観るバーンスタインのマーラーには、こちらを問答無用で巻きこむような豪腕を感じたことはない。場面が切り替わることで、良い意味で適当に気が散るせいもあろう。なによりも画面を通すことでバーンスタインの激しい毒気が中和され、「オレ様のマーラーを聴け!」という演奏史上他に比肩するものなき自己主張(※3)をぶつけられずに済む。最前、距離を保てている安心感がある、と書いたのは、そうした所以だ。とはいえ、かれの映像による全集を購入、手許へ置こうなんていう気は、余程の好機に恵まれない限り、ありませんがね?

 ――と、千々に乱れるマーラーへの想いを確かめながらここまで書いてきたが、一旦筆を擱いて顧みるに、わたくしにとってやはりマーラーはけっして相性が良いとはいえない作曲家だ、と白状せざるを得ない。
 完成された交響曲を十も残した人だから、そのすべてを等しく好きになれようはずはない。当然、好きな曲、嫌いな曲というのが出て来る。わたくしの場合、その濃淡、その落差は著しい。忌憚なくいってマーラーの交響曲はその半分――《大地の歌》はその取捨に悩むところであるが、それでも第2番《復活》、第3番、第6番《悲劇的》、第7番《夜の歌》、第9番の五曲があればじゅうぶんだ、と思うている。それがため、誰彼の指揮であっても架蔵するディスクは、自ずとそれらが中心を占める。裏を返せば、全集という形以外で第1番や第5番といった有名曲は殆ど持っていない、ということだ。
 こんな現象が生じるのも、ひとえにわたくしのマーラーへの親近ぶりの稀薄なる点が原因であろう。上に挙げた曲はとことんまで溺愛し、そうでない曲には徹底して冷淡を極める。それも相性、己が性格のゆえだ。そうしていつしかわたくしのところにあるマーラーは、第3番と第9番のみになるだろう。残るべきものが残るべくして残った、というだけの話。が、それでいい。なにもかもが、それでいい。ケ・セラ・セラ、とはそういうことだ。されど、いましばらくは――。
 いずれにせよ、グスタフ・マーラーという作曲家の作物(交響曲ばかりでなく幾つかの室内楽や、今回まったく書きそびれていた歌曲など、マーラーが創作して音で聴けるすべて。序ながら、かれの書簡集は読んでて楽しいですね)とは、もう少しの間、お付き合いさせていただくことになりそうである。感謝? 幸福? ……いやぁ、それ程では……。◆

 ※3 オレ様のマーラーを聴け、という自己主張;〈天上天下唯我独尊〉に相通じるものを感じる主張だ。まるで千秋……。□

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