第1188日目 〈いつの日か、そこへ行こう!〉 [日々の思い・独り言]

 聖書を読むようになるまで、別段シリアやヨルダン、イスラエルなどに行ってみよう、と思うたことはなかった。エジプトやキプロスは世界史が好きだったことでその内に行けたらいいな、程度には漠然と考えていたものだったが。
 あなた方にはないかな。海外の小説を読んだり映画を観ていて、これまで興味のなかった国や地域に心惹かれてそこへ行ってみたい、と望むようになった経験は?
 わたくしは、ある。けっこう早い年齢からギリシアに憧れ、フィンランドってどんな国だろう、と想像逞しうし、イタリアのジェノヴァってどんな街並みなんだろう、と夢にまで見た。
 決定打となったのはベーカー街とハワースであった。決定打、とは、読んでその地に憧れ、実際にそこを訪ねた、という意味だ。昨今の言葉でいえば、「聖地巡礼」である。――いま思い出したのだけれど、わたくしはかつてハワース訪問のエッセイで、このブロンテ姉妹ゆかりの地を〈聖地〉と表現した。偶然とかいうのではなく、その行為が孕む信仰めいた気分に相応しい言葉は〈聖地〉という言葉以外になにもなく、それはまさに「聖地巡礼」としか言い様のない行為であるわけだ。
 現在、こうして聖書を読んでいて、そこで語られるイスラエルの歴史に興味を持ち、諸国の断片的な歴史に興味を持ち、かつブログ原稿を認めるにあたってときどき文献に当たって調べ事をしていれば、自ずと中東の歴史や文化に関心を寄せるようになるものだ。
 「列王記」や「歴代誌」を読んでアッシリアやバビロニア、或いはペルシャの勃興と盛衰にまるで第二次大戦期のヨーロッパ史を繙くようなふしぎな高揚に襲われ、「出エジプト記」や「エレミヤ書」を読んでいてエジプトの悠久としか言い様のない滔々たる歴史の流れにしばし黙りこくり、古書店などでエジプト展やらオリエント展やらのカタログがあれば自然と手が伸び、終いにはそれらの国の歴史や美術史を扱った本を見附けた端から検分して合格点に達していれば購入するようになった。――「好きになる」とは往々にして斯様な流れを辿るものではあるまいか? 恋愛と同じだよね!
 おそらくたぶん、こんな深くかの地域に対して想いを巡らせるようになったのは、ひとえに聖書を読んでいたからだ。そこが舞台の映画を観ていた、とか、小説を読んでいた、とか、もしくはSKE48の矢方美紀のように吉村作治先生出演のドキュメンタリーを子供の頃に観て、なんて経験をしていても、斯くも深くかの国々へ行ってみたい、と強烈な欲求に突き動かされることはなかったであろう。それも、読んでいる、読んだことがあります、という程度の読書体験であれば、そんな欲求を覚えていたかどうかは怪しいものだ。
 敢えてこう申し上げれば、聖書に淫するが如く読み耽ったからこそ、ページのあちこちへ手垢をまみれさせ、四隅を丸く折り、扉と本文に割れを作るぐらい読み倒したからこそ、聖書に描かれる世界へいつの日か旅してみたい、と心底思うたのだ。――この程度の読み方、キリスト者/聖書学者/教会関係者なら誰しもやっているだろうけれど、一般人でここまでやっちゃった輩はそうそう滅多にはいないと思いますよ。
 そも聖書を神話と歴史と幻視の書物、としか思うていないわたしにとって、これが最良の中近東――オリエントというた方がいいか――への手引き書(原典という意味で)となっているのは、すべてのキリスト者他に申し訳ないが、紛れもない事実なのである。
 きっと、聖書に続けてダンテ『神曲』を読んだら、「イタリア行きたい」って叫ぶんだろうね?◆

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