第1208日目 〈エゼキエル書第2章:〈エゼキエルの召命〉2/3with読書傾向について・考え中なう。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第2章です。

 エゼ2:1-10〈エゼキエルの召命〉2/3
 かれ、即ち主の顕現した姿がわたくしの前にいた。霊がなかに入って、ひれ伏したままのわたくしを立たせた。かれは主の言葉を告げた。
 主の曰く、――
 反逆の家イスラエルのなかへあなたを派遣する。かれらにわたしの言葉を告げよ、かれらは知るだろう、捕囚の地にも預言者がいることを。
 かれらはわたしの言葉を、従順な態度で聞き入れるかもしれない。或いは、反逆の家なるがゆえに拒むかもしれない。
 しかし、「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」(エゼ2:7)
――と。
 主はいった、これを食べよ、と。見るとかれの手に一巻の巻物があった。それの裏にも表にも、哀歌と嘆きと呻きの言葉が縷々綴られていた。

 「彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」(エゼ2:5)
 エゼキエルがバビロンへ連行されてきたとき、そこには預言者ダニエルが既にいて、活動していた。ダニエルは前605年の第1次バビロン捕囚で連行されてきた一人。エゼキエルはかれに遅れること8年目にして主より預言者として召命された。
 二人は同じ帝都バビロンにて預言者活動を行いました。ならば捕囚民は、召命されたばかりのエゼキエルはともかく、ダニエルの存在は知っていて然るべきであろう、なのになぜ主は「自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」というのか? 理由は、ダニエルは専らバビロン王宮内にて活動する人物だったから。
 対してエゼキエルはバビロン市中に在って、捕囚民に混じって活動する。ダニエルが市中に存在を知られずにいれば捕囚民がかれのことを知る機会はなく、エゼキエルが召命されて初めて、連行されてきたイスラエルの家はかつてユダにいたときと同様、預言者が自分たちの間にもいたのだ、と知るようになる。それゆえ主は、「自分たちの間に預言者がいたことを知る」というたのだろう、とわたくしは考るのであります。

○バビロン捕囚 
 前605年 第1次バビロン捕囚:ダニエル他
 前593年 第2次バビロン捕囚:ヨヤキン王、エゼキエル他
 前586年 第3次バビロン捕囚:ゼデキヤ王他 エルサレム陥落/ユダ王国滅亡
 前583年 第4次バビロン捕囚:バビロニア軍親衛隊長ネブザルアダンが745人を連行



 最近PDCAについての本や小山龍介『STUDY HACKS!』を読んでいます。コリン・パウエルのリーダー論がその次に控える。つくづく読む本の傾向は変化してきたけれど、こうした本を読むのにまったく抵抗がなくなった。やれやれ。
 でも、『ねじまき鳥クロニクル』の文庫は鞄のなかにいつも入っている。それをゆっくり読み進めていることからもわかるように、読書の主軸は動くことなく存在し、そこに仕事術や自己啓発書の類が新たに参入した、というのが正確なところか。
 一人の人間の読書傾向っていうのは、どれぐらいのスパンで流動してゆくのだろう。残るものはどういう本で、淘汰されるのはどんな本なのであろう。極めて雑食な自分の読書傾向はまったく参考に価しないので、近頃はどこかその辺にいる人の読書傾向、その嗜好、その変化を訊ねてみたく思うている。
 なぜ? 「知りたい」という自分の欲求を充足させたいからである。他に理由は、特にない。たぶん。◆

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