第1209日目 〈エゼキエル書第3章1/2:〈エゼキエルの召命〉3/3with昨日はごめんなさい。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第3章1/2です。

 エゼ3:1-15〈エゼキエルの召命〉3/3
 命じられて口を開けると、かれはその巻物を食べさせた。甘い蜜のような味がした。
 主はいった、――
 人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉をかれらへ向けて語れ。あなたは外国語を喋るバビロニアの民のなかへ行くのではない。同じ言葉を話す同胞イスラエルのなかへ行くのだ。
 わたしの言葉に聞き従わせるだけなら、バビロニアの民の方が容易い。それ程までにイスラエルの家は頑なだ。額が硬ければ心も硬い。そこでわたしはあなたの額も心もかれらより硬くする。否、遥かに強度のあるダイヤモンドのようにしよう。
 さあ、かれらを恐れたり、かれらにたじろいだりしてはならない。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」(エゼ3:10-11)
――と。
 そのとき、霊がわたくしを引き上げた。背後で大きく轟く音がした。かの生き物が翼を振るわせ、傍らにあった車輪が轟音をあげて回転しているのだ。「わたしは苦々しく、怒りに燃える心を持って出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた。」(エゼ3:14)
 そのようにしてケバル河畔のテル・アビブに来た。そこには捕囚民が住んでいた。そこで7日間、なにもしないでただ坐り、呆然として暮らした。

 鮮烈なる召命体験の終わりです。
 イザヤやエレミヤの召命体験と決定的に異なるのは、やはりそのドラマティックなる点でしょうか。イザヤの召命はシチュエーション的にエゼキエルのそれとよく似ています。が、エゼキエルのとき程微に入り細に穿って描写されているわけではありません。エレミヤに至ってはその消極的なること、他に例を見ないようなものであります。
 エゼキエルの召命体験がイザヤやエレミヤ、或いは本書のあとで読む預言書と較べてみても、群を抜いて生々しい息遣いを感じるのです。これは、「エゼキエル書」が他の書物と違って、比較的早い時期に現在とほぼ変わらぬ形で成立したらしい、という説の根拠ともなる点といえましょう。
 なお、テル・アビブにエゼキエルは来た。その地は現在のテル・アビブとは勿論異なり、バビロン南東にあった町です。ユーフラテス川から引きこまれた運河、即ちケバル河畔にあったテル・アビブは水利を生かして灌漑に適した土地にあり、捕囚民が生活に適した地をバビロニア政府からあてがわれていたことが推察されることであります。



 昨日は唐突に安息日を設けてしまい、ご迷惑をお掛けしました。考えてみれば安息日って、昨日のようになにも更新しないで済ませることなのですよね。それなのに、安息日のお知らせなんて書いているわたくしは、余程なにかを書かないと気が済まないのだな、とやや反省しています。
 明日からはまた定期的に更新してゆけるように尽力します。◆

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