第1210日目 〈エゼキエル書第3章2/2:〈預言者の務め〉&〈エゼキエルの沈黙〉with「さんさんか、三連休を持て余す」の記。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第3章2/2です。

 エゼ3:16-21〈預言者の務め〉
 七日が経って主の言葉が臨んだ、――
 あなたはわたしに代わり、イスラエルの家に警告しなければならない。
 これまでの正しい生き方を離れて、悪事に耽る者がいたとする。かれの生前の善行は世人の記憶から忘れられて、世間の口の端に上ることのないまま死ぬ。かれに過ちを警告しなかったあなたに、わたしは罪の責任を問う。
 かならず死ぬ、と告げられていた悪人が、その警告通り、悪人のまま死んだとする。悪の道から離れて命を得るようあなたがかれを諭さなかったら、わたしはあなたにその罪の責任を問う。
 が、悪人に対して警告し、過ちを犯して正しき人の道へ戻るよう諭すなら、かりにかれらが自分たちの罪ゆえに死んだとしても、あなたは生きて命を得る。

 エゼ3:22-27〈エゼキエルの沈黙〉
 主の御手が臨み、平野に導いた。そこには主の栄光が留まっていた。かれは主の言葉を告げた。曰く、――
 人の子よ、あなたは自分を家に閉じこめて自縄自縛し、イスラエルの家のなかへ出てゆけないようにせよ。わたしはあなたの舌を上顎に付けて、喋れないようにする。イスラエルの家を責める者としてのあなたの役割は、それで終わる。
――と。
 「しかし、わたしが語りかけるとき、あなたの口を開く。そこであなたは彼らに言わねばならない。主なる神はこう言われる。聞き入れようとする者は聞き入れよ。拒もうとする者は拒むがよい。彼らは反逆の家だから。」(エゼ3:27)

 テル・アビブのケバル河畔に7日間坐っていたエゼキエルに臨んだ主の言葉。それは召命が済んで最初に臨んだ主よりの言葉でした。いわば預言者としての仕事始めであります。その内容は、預言者として斯くあれかし、イスラエルの家に臨むべき態度はこうである、と教えるものでありました。
 このあたりだけを見ても、かれの預言者としての行動がイザヤやエレミヤとは性質の異なったものである、と思われてなりません。たしかかれらの場合、こうした具体的な指示めいたものはなかったのではないかな。書物の成立年代というものとも絡んでくるのかもしれませんが、エゼキエル書が他の預言書とカラーの異なるものであるのは、預言の舞台となる土地(国)の違いに加えて主の言葉の具体的なる点に、ささやかな理由の一端を求められるように思うのであります。



 三連休ってなにをすればいいんだろう? これまでカレンダー通りに休んだことないから、どう過ごしていいのか今一つよくわからない。
 でも、さいわいと前職の給料が振りこまれていたのでようやく決心できた、それは一種の福音である。どういうことかといえば、取り敢えず中日の今日は映画を観てきます、ということだ。『ホビット』を観てくる、やっと!
 それにしても。
 一人で日曜日の映画館か、淋しいな、俺。
 まぁ、いつものことだけれどね?◆

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