第1214日目 〈エゼキエル書第6章:〈偶像礼拝の山〉withiPodで太宰治「駈け込み訴え」を聞きました。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第6章です。

 エゼ6:1-14〈偶像礼拝の山〉
 主の曰く、――
 わたしは剣を持ってイスラエルの大地に臨む。わたしはわたし以外の神、即ち偶像を作り崇めた民を倒し、偶像を祀る祭壇の前に倒す。かれらの骨は砕かれて祭壇の周りに撒き散らされる。かれらの住む町はどこも廃墟となり、聖なる高台は破壊され、偶像は砕かれ、香炉台は打ち壊される。こうしてかれらの作ったものは一つの例外もなく、地上から消える。
 「殺された者がお前たちの真ん中に倒れる。そのとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。しかし、お前たちが諸国に散らされるとき、わたしはお前たちのために、剣を逃れた者を諸国民の間に残しておく。お前たちのうちで逃れた者は、捕囚として連れ去られる先の国々でわたしを思い起こす。わたしを離れ去る姦淫の心と、偶像に引かれる姦淫の目をわたしが打ち砕くからだ。そして彼らは自ら行った悪のゆえに、その忌まわしいすべてのことのゆえに、自分を嫌悪するようになる。そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」(エゼ6:7-10)
 わたしはかれらに対して怒りを注ぐ。近くの者は剣に倒れ、遠くの者は飢えに倒れる。かれらがあまねく地の上で倒れるとき、或いは偶像に宥めの香りを捧げた場所で倒れるとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。かれらが住むすべての地を荒廃させるとき、かれらはわたしが主であることを知るようになる。

 かれらはわたしが主であることを知るようになる。――これは「エゼキエル書」を読んでいると、たびたび出喰わす文言です。キーワードの一つというて良いかもしれません。
 本章では3回登場するこの言葉、推察するにそれだけイスラエルの家が外から見ても堕落しており、神なる主の嗣業の民(イスラエルとユダの家)が他の、異教異国の神の礼拝に勤しんで、自分たちの神を忘れて顧みないことの証しといえるでしょう。それは昨日読んだ分からもおわかりいただけると思います。
 斯くもイスラエルは自分たちのアイデンティティを喪失しかけていることになぜ気附かなかったのだろう、気附いてもどうしてそれを正して律しようとしなかったのか、当時エルサレム市中にあって主の預言を誠実に伝えていたエレミヤの言葉に真摯に耳を傾ける心を持つことができなかったのか、とすこぶる疑問に思うことでありますが、件のキーワードのあることを念頭に置いてみると、成る程、視界が開けて、これまで完全とは言い難かった疑問の解決の糸口が得られたように思うのであります。


 iPodで太宰治の短編「駈け込み訴え」を聞く。ソースは例によって図書館で借りた朗読CD、朗読者は俳優の草野大悟。その抑制と冷笑と高揚がブレンドされた語り口が太宰作品にはぴったりなのだ。特に「駈け込み訴え」のような愛と裏切りの物語には。
 もし機会があったら、聞いてみてください。◆

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