第1215日目 〈エゼキエル書第7章:〈主の怒りの日〉with本日のブログ原稿はExcelで作成!〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第7章です。

 エゼ7:1-27〈主の怒りの日〉
 主の言葉が臨んだ、――
 終わりの時が近付く、それは怒りの日、地上は混乱を極め、山々からは喜びの声が途絶える。この地に住む者らよ、順番が来た。終わりの時の訪れだ。
 そは怒りの日、主の怒りは群衆のすべてに注ぐ。外には剣、内には餓えと病、群衆に逃れ場はない。逃げ場も、逃げる手段もない。お前たちは粗布をまとい、やつれた姿で彷徨う。戦慄がお前たちを包む。蔵する貴金属は他国人の手に渡る。わたしは列強諸国をイスラエルへ差し向け、かれらの家を壊させ、かれらの聖所を汚させる。
 平和は去った、災いが訪れる。多くの悪報が舞いこむ。預言者を求めても得られず、律法は祭司から奪われ、助言は長老たちから奪われる。王は嘆き、貴族は恐れ、民は震える。
 「わたしは彼らの行いに従って報い/彼らの法に従って彼らを裁く。/そのとき、彼らは/わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ7:27)

 これを読んで、古今の作曲家が書いた《レクイエム》、そのなかの〈怒りの日〉(ディエス・イレ)を想起するのはおそらくわたくしだけではないはず。音楽の方ではこの〈怒りの日〉、むろん旧約聖書就中「エゼキエル書」に起因するものではなく、「ゼファニヤ書」や「マタイによる福音書」などをベースにしてフランシスコ会士チェラノのトマスThomas da Ceranoが書いた詩を基にしているといわれます(高橋正平『レクイエム・ハンドブック』P18 東京音楽社 1991)。
 しかしながらエゼキエルに臨んだ主の言葉を読んでいると、小見出しに惑わされることがなくとも、これも《レクイエム》の〈怒りの日〉を連想させるのは仕方ない程、その雰囲気や趣きに重なる部分があって、思わず胸がふさがれて「嗚呼!」と嘆息するのであります。
 本章は遠く離れた故国の王都エルサレムへ向けられた、餞別の言葉のようなもの。神なる主の心が最早イスラエル/ユダの家から離れて、来たるべき再生の時代へ向けられている様子が滲み出しております。単純ながらとても力強い文言がここに並ぶのは、神の決意の固さに起因する、とわたくしは考えるものであります。
 従って、という言い方は可笑しいかも知れませんが、これがエルサレムとそこに住まう住民に宛てられたものである以上、本章に於いて「預言者」とはエレミヤを指すのだ、と申しあげてよろしいかと思います。如何でしょうか。



 じつは本日のブログ原稿はExcelで作成しております。ちょっと「?」な点もありますが、久しく使っていなかったExcelの操作方法を思い出すことも兼ねて、こんなことをしていました。
 仕事でExcelしか殆ど使わない状態になるし、この前のタイピング・テストであんまりよろしくない結果を出してしまったし、こいつがちゃんと操作できればもう怖いものなしなんだよな、と倩考えての本日のブログ。これから暫くは原稿をこの表計算ソフトで執筆してみることになりそうです。◆

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