第1217日目 〈エゼキエル書第9章:〈エルサレムの堕落〉2/2with振り返れば、ヤツがいる。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第9章です。

 エゼ9:1-11〈エルサレムの堕落〉2/2
 主の呼ばわる声が聞こえる。王都エルサレムを罰する者よ、それぞれ破壊の道具を手にしてここへ集まれ。――すると、北に面する上の門へ通じる道を、6人の男たちが歩いてきた。男たちはそれぞれ突き刺す道具を持っている。その内の一人は亜麻布をまとい、腰に書記の筆入れをさげていた。男たちは青銅の祭壇のそばに立った。
 ケルビムの上に留まっていた主は亜麻布姿の男にこういった。エルサレム市中を巡り、ここで行われているあらゆる罪悪のために嘆き悲しむ人々を捜して額に印を付けよ、と。他の男たちにはこういった。共に行き、かれが印を付けた人々を除くすべての住民を殺し尽くして来よ、と。さあ、行け。わが神殿から始めよ。
 男たちは出てゆき、命じられたことを実行した。その間、わたくしは顔を伏せていた。かれらの行いがあまりに酷たらしいものであったからだ。それについて嘆くと、主は答えて曰く、――
 「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」(エゼ9:9-10)
――と。
 亜麻布姿の男が戻ってきて、いった。命じられたすべてのことを成し遂げてきました、と。

 聖なる殺戮。聖なる名に於ける正義を掲げた殺戮。そんな言葉が、ふと脳裏にひらめきました。そんなことがあってよいものか、と疑問ですが、殊旧約聖書に限ってはさも当たり前のように繰り返されてきた行為であり、思想であります。
 預言書に入ってからはあまり出喰わしませんが、思い出してみてください、「創世記」からこの方「列王記」と「歴代誌」へ至る歴史に於いて、斯様な行いはさまざまな形を取ってわれらの前に立ち現れたではありませんか。むろん、さんさんかはこれについて言葉も異議もはさまぬ者であります。歴史は知と地と血の上に構築される、と信じるからです。
 とはいえ、エルサレム市民の勝手な言い分には呆れ果てますね。自分たちのことを棚にあげてなんたる言い分か、と、わたくしでさえ思いますよ。出エジプトの頃からの、お馴染みといえばお馴染みの光景ではありますが。何百年にもわたる、主の愛と民の裏切りがせめぎ合うドラマの終盤戦。そのドラマは、本書でも描かれる「主の栄光が神殿を去る/エルサレム陥落、ユダ王国滅亡/バビロン捕囚:さまよえるユダヤ人の誕生」というシノプシスを以て、いわば〈シーズン5〉が終わる。
 ドラマ? 然り、旧約聖書という史上最大規模の神話と歴史のドラマ。
 事のついでにちょっとお話しすると、さんさんかは旧約聖書を全部で6つのシーズンに分かれるドラマのように考えております。シーズン1は「創世記」、シーズン2は「出エジプト記」からヨシュアによるカナン入植まで、シーズン3は「士師記」からサムエル・サウル・ダビデによるイスラエル建国を経てソロモン王の崩御まで、シーズン4は「列王記」と「歴代誌」:即ちイスラエル盛衰記、シーズン5はイザヤ・エレミヤ・エゼキエル・ダニエル(ブリッジ・エピソードとして小預言書群)、の挿話、シーズン6/ファイナル・シーズンが「エズラ記」と「エステル記」、「ネヘミヤ記」であります。その後、新章として「新約聖書」の時代の訪れを待つ。ここに入れられなかった「ルツ記」と「ヨブ記」はいうなれば、スピンオフという感じでしょうか。「詩編」はドラマ全体を貫く通奏低音、各シーズンのバックグランドをなすもの、というところ。……手持ち無沙汰な折にこんなことを考えています。えへ。



 時間を区切って処分する本を箱に詰めました。5箱まで出来たところで時間切れ。前職で蓄積された箱詰めのカンが未だ残っていることに愕然とした。人間って案外いろいろなことを体に覚えこませているものなのですね。しかし、後ろを振り返れば積み重なった段ボールが5箱……。でも、まだ箱詰めの終わっていない(概ね箱に入れるだけの状態になっている)ものがあるんだな、これが。はあ、道は長く、遠い。◆

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