第1219日目 〈エゼキエル書第11章:〈主の栄光が神殿を去る〉2/2with暫くはゾンビとなって過ごそうか?〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第11章です。

 エゼ11:1-25〈主の栄光が神殿を去る〉2/2
 霊に連れられて神殿の東の門に立った。そこにはエルサレム住民の指導者、ヤアザンヤとペラトヤを始めとする25人の男がいて、都は鍋でわれらは肉だ、といっている。主が、預言せよ、と囁いた。曰く、エルサレムで殺された多くの者こそ肉である、わたしはお前たちが恐れる剣を頭上に臨ませ、お前たちに対する裁きをイスラエルの国境で行う、と。
 「そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ11:10)
 ――預言の最中、ペラトヤが倒れて、死んだ。わたくしは主に向かって、これ以上イスラエルの民を殺そうというのですか、と叫んだすると、主の言葉が臨んだ、――
 わたしはわたしの民を諸国へ追い散らす、そうしてかれらの聖所となる。時が流れて後、あらゆる憎むべきものとあらゆる悪しきものを一掃したこの大地へ、わたしはかれらを帰還させる。わたしはかれらに一つの心を与える。それは肉の心である。肉の心を与えるのは、かれらがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためだ。「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(エゼ11:20)しかし、憎むべきもの、忌まわしきものへ心を寄せる者には、これまでの行いに相応しい報いがかれらの頭上に降る。
――そう、主はいった。
 「そのとき、ケルビムは翼を広げ、車輪もまた共に行った。イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。主の栄光は都の中から昇り、都の東にある山の上にとどまった。霊はわたしを引き上げ、カルデアの方に運び、わたしを幻のうちに、神の霊によって、捕囚の民のもとに連れて行った。こうして、わたしの見た幻は、わたしを離れて上って行った。わたしは、主が示されたすべてのことを、捕囚の民に語り聞かせた。」(エゼ11:22-25)

 ヤアザンヤとペラトヤが25人の指導者の内の一人であったこと以外に、聖書はなにも語り伝えません。いわば、端役中の端役というべき存在ですが、こんな存在がときに妙に気になってしまうことがある。そうした人たちがどんなバックグラウンドを持った人物なのか、聖書各編を読んでいると折々そんな風に想像する楽しみがあるのであります。
 さて、肝心の部分。主の栄光が神殿を去る。それがどういうことかと申せば、たしか昨日も触れた記憶がありますけれど、即ち、イスラエルのアイデンティティの喪失であり、この時代の民の心の声を聞くことができるならば、おそらく、都も国も形骸化して依り頼むべき存在を失った、ひび割れた器のようなものでしかなく、風前の灯火同然の状況に立たされた、という旨の嘆きを聞くことができたかもしれません。これはわたくしがそう思う、というだけの話です。
 いずれにせよ、庇護してくれる存在がなくなったことで、イスラエルは心をなくし、いよいよ目の前に迫る終わりの時が始まったのだ、とエルサレムの(一部のまだ信仰篤き)民なら悟ったことでありましょう。



 行け、わが想いよ、漆黒の翼にのって。ヴァルハラへ? ポポヨラへ? その地で、我、<死>を宣告される者なり。
 同期として入社し、同じチームで事業スタートに向けてがんばってきた人が、突然他部署へ異動。心にぽっかり穴が開いて、埋める術が見附からない。暫くはゾンビになろうか。……畜生!◆

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