第1221日目 〈エゼキエル書第13章:〈偽りの預言者〉with安息日のお知らせ&“to be or not to be.”〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第13章です。

 エゼ13:1-23〈偽りの預言者〉
 わが名を騙って預言活動を行うイスラエルの者どもよ、それゆえわたしはお前たちに立ち向かう。そう主の言葉が臨んだ。
 エゼキエルよ、とわたくしに語りかける声がする。かれらはむなしい幻を見、欺きの占いをする。聞けもしないわたしの言葉を民へ伝える。さも己はまこと、神の言葉の伝達者、意思を仲介する者然として。
 「わたしの手は、むなしい幻を見る預言者たちと、欺きを占う占い師たちに向けられる。彼らはわたしの民の集いに加えられず、イスラエルの家の記録にも記されず、イスラエルの土地に入ることもできない。そのとき、お前たちはわたしが主なる神であることを知るようになる。」(エゼ13:9)
 平和、平和、と口にしても、一欠片程の平和すら訪れない。偽りの言葉は壁に漆喰を上塗りするに等しい。ちょっとした拍子に脆くも崩れ落ちる。それを見たイスラエルは口々に罪のなすり付け合いを始める。わたしはこれに怒りを以て臨む。
 また、呪術を用いるイスラエルの家の娘たちよ、わたしはお前たちに立ち向かう。――そう主はいった。お前たちはわが民の魂を捕らえて、自分たちの仲間の魂を大切にする。死ななくてもよい者が身罷り、死ぬべき者が両手を振って闊歩している。わたしはお前たちに立ち向かい、お前たちがわが民に二度と手を伸ばしたりできないようにする。
 「お前たちは、わたしが苦しめようとしていないのに、神に逆らう者の心を偽りをもって苦しめ、神に逆らう者の手を強め、彼らが悪の道から立ち帰って、命を得ることができないようにしている。それゆえ、もはやお前たちがむなしい幻を見ることも占いをすることもなくなる。わたしは、お前たちの手からわが民を救い出す。そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。」(エゼ13:22-23)

 そういえば、「エレミヤ書」に偽りの預言者がバビロンで預言活動を行っているのを知ったエレミヤが、バビロンにいる捕囚の同胞に手紙を書いてイスラエルの主の信仰にのみ立ち帰って偽りの預言者の言葉に耳を傾けるな、というていたのを思い出します(エレ29:1-23)。ここでいう偽りの預言者と「エレミヤ書」にいう偽りの預言者は、もしかすると同じであったのかもしれませんね。併せてエレ23:25-40も読んでみるとよいと思います。
 自分の名を騙って大事をなせようはずがない。語る者には懲罰を与える。――それが本章の主眼であると同時に、神なる主の本音であります。これは現代にも、また、いつの時代にも通じるものがありますね。……普遍的なる真実は、いつだって時代も場所も人種も宗教も簡単に飛び越えて、似たような言葉で語られている。これはもしかしたら、太古より人類のDNAに組みこまれたものなのかもしれませんね。どうだろうか?



 明日は歓送迎会のため、安息日とさせていただきます。その翌日もまた同様に。今月二度目、三度目の、計画立てては初の安息日。こんな風に予告しておくと、なんだか本当の安息日なんだな、と実感が出てきますね。
 さあ。伝えるべきか伝えぬべきか、それが問題だ。◆

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