第1238日目 〈ようこそ、ここへ〉【小説】 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 「まだかな?」横で自分の肩を抱く長姉に、小学二年の風間絵里は訊ねた。
 「まだだねぇ」
 返ってきた姉の言葉にふくれっ面をしてみせた。と、「可愛い顔が台無しよ」と諫められた。元日の昼、初凪の海岸。ここで姉妹は父の帰りを待っている。未だ待ち人来たらず、だが、もうすぐだ。
 「鎌倉だからねぇ。きっと初詣の人たちでいっぱいだろうし」
 「愛ちゃんのお家みたいに?」
 「うん。――まあ、人はもっとたくさんいるだろうけど」
 「――ねえ。鎌吉、海怖がるかな?」
 鎌吉? 絵里はいつからこんな名前を考えていたのだろう。少なくとも梨華には初耳だった。それにしても、鎌吉とは、なんともユニークな命名ではないか。梨華は内心で、くすり、と笑ったが、それを表に出すのはやめておいた。
 「そうだねぇ……」と梨華は頬に拳をあてて考えこんだ。「鎌倉にも海はあるからなぁ。パピー・ファームって山の方だっけ?」
 「ママと一度だけバスで行ったけど、赤い電車の駅からずいぶん乗ったよ」
 「そっか。だけど、なんで?」
 「……鎌吉が海を怖がって脚がすくんじゃったらね、へっちゃらだよ、って抱きしめてあげるんだ」
 姉がクスッ、と笑んだ。「もう絵里もお姉ちゃんだね」
 「お姉ちゃんだよ」絵里は胸を張った。「玲霞もいるし、まだハイハイしかできないけど沙織だっているもん」
 そのときだ、防波堤の方から仔犬の鳴き声が聞こえる。振り返ると、鎌倉へ行っていた父が、防波堤に腰をおろしていた。ちょうど仔犬を放したところだった。二ヶ月前はまだ足許もおぼつかなかった仔犬が、いまはしっかりと砂浜を踏みしめている。
 絵里は仔犬の名を呼んで、小走りに駆け寄る。それに気附いた仔犬が、短い四肢を懸命に繰って絵里に向かってきた。
 あとわずかのところで、絵里は砂に足を取られて転んだ。呻きながら顔をあげると、目の前に仔犬がいた。絵里は身体を起こして、ぺたん、と坐りこむと、尻尾を振りながら自分を見るセント・バーナードの仔犬を静かに抱きあげた。
 「鎌吉……。やっと会えたね」
 絵里は誕生日から一週間遅れでやってきた鎌吉の鼻の頭にキスをした。
 ――来てくれてありがと。ようこそ、鎌吉。
 それに応えるように、鎌吉が絵里の頬を、涙を掬うようにぺろり、と舐めた。◆

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