第1249日目 〈エゼキエル書第34章:〈イスラエルの牧者〉with〈となり〉にいてほしい人は、〉 [エゼキエル書]
エゼキエル書第34章です。
エゼ34:1-31〈イスラエルの牧者〉
イスラエルの牧者たちに預言し、語れ、と、主の言葉。
務めを忘れて自分自身を養うばかりの牧者たちの口から、わたしは群れを救い出してかれらの世話をする。
牧者たちよ、お前たちの務めは弱き群れを見守り、世話して養うことだ。野の獣の餌食にならないようにし、傷附いた者を優しく包み、追われた者を連れ戻し、失われた者を捜すことが、牧者たる者の務め。守り手たること、導き手たること。それが牧者の役割。
しかし、お前は自らの責務を怠った。自分たちの群れを蔑ろにし、却って力ずくで、苛酷に群れを支配した。迷った群れを捜すこともせず、群れを養うこともなく、ただ自分たちを養うばかりだ。
わたしはお前の口からかれらを救い出す。わたしがかれらを養う。あの日、雲と密雲の日に散らされた群れを捜し求めて、すべての場所からこれを救い出す。そうやって諸国から集めた群れを、かれらの土地へ導く。イスラエルの牧場、イスラエルの山々。その地でかれらを養う。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:16)
かれらのために一人の牧者を起こして養わせよう。わが僕ダビデがそれである。主であるわたしはかれらの神となり、その真ん中に君主としてダビデを置く。
わたしはかれらと平和の契約を結ぶ。わたしはかれらの土地とその周辺に祝福を与え、祝福の雨を降らせ、かれらがその土地でやすらぎを得られるようにする。かれらはその土地で、略奪とも凶作とも、恥辱とも嘲笑とも無縁のまま、やすらかに暮らす。
斯くしてかれらは、わたしがかれらと共にいる主なる神であり、かれらは自分たちが神の民イスラエルの家である、と知るようになる。
「お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である。」(エゼ34:31)
課せられた本来の職務を蔑ろにして私利私欲に耽る牧者たち、即ち王や祭司への裁きの言葉が語られる本章で、いちばん印象的なのは、君主ダビデを一人の牧者として立てる、という主の宣言でありましょう。
これは勿論、既にわれらが読んできてその生涯の事績や挿話について様々知る、統一王国イスラエルの2代目国王としてのダビデではありません。ここでのかれは、理想化された牧者としての存在。否、牧者というよりも“君主”としてのダビデであります。いうなれば、永遠の統治者としてのダビデなのであります。
ティンデル『エゼキエル書』の著者J.B.テーラーもいうように、ダビデの復活や王家の血筋にある人間の王を指すのではない(P237 いのちのことば社)。なぜならば、主の理想に適った統治者、君主、牧者こそダビデに他ならなかったからです。それは、「サムエル記」などを読み返してみると浮かびあがってくることであります。
かれがサムエルとサウルに見いだされる前、羊飼い(牧者!)であったのも、忘れてはならない点であると思います。また、無関係ではないと思います。
「さよなら」はできない。少なくとも、まだ。
〈となり〉にいてほしい人は、誰ですか?
気持ちがすれ違うことがあったとしても、
たがいの過去や現在がどうであろうとも、
求めるひとは、この世にたった一人だけ。
〈となり〉にいてほしい人はあなたです。◆
エゼ34:1-31〈イスラエルの牧者〉
イスラエルの牧者たちに預言し、語れ、と、主の言葉。
務めを忘れて自分自身を養うばかりの牧者たちの口から、わたしは群れを救い出してかれらの世話をする。
牧者たちよ、お前たちの務めは弱き群れを見守り、世話して養うことだ。野の獣の餌食にならないようにし、傷附いた者を優しく包み、追われた者を連れ戻し、失われた者を捜すことが、牧者たる者の務め。守り手たること、導き手たること。それが牧者の役割。
しかし、お前は自らの責務を怠った。自分たちの群れを蔑ろにし、却って力ずくで、苛酷に群れを支配した。迷った群れを捜すこともせず、群れを養うこともなく、ただ自分たちを養うばかりだ。
わたしはお前の口からかれらを救い出す。わたしがかれらを養う。あの日、雲と密雲の日に散らされた群れを捜し求めて、すべての場所からこれを救い出す。そうやって諸国から集めた群れを、かれらの土地へ導く。イスラエルの牧場、イスラエルの山々。その地でかれらを養う。
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」(エゼ34:16)
かれらのために一人の牧者を起こして養わせよう。わが僕ダビデがそれである。主であるわたしはかれらの神となり、その真ん中に君主としてダビデを置く。
わたしはかれらと平和の契約を結ぶ。わたしはかれらの土地とその周辺に祝福を与え、祝福の雨を降らせ、かれらがその土地でやすらぎを得られるようにする。かれらはその土地で、略奪とも凶作とも、恥辱とも嘲笑とも無縁のまま、やすらかに暮らす。
斯くしてかれらは、わたしがかれらと共にいる主なる神であり、かれらは自分たちが神の民イスラエルの家である、と知るようになる。
「お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である。」(エゼ34:31)
課せられた本来の職務を蔑ろにして私利私欲に耽る牧者たち、即ち王や祭司への裁きの言葉が語られる本章で、いちばん印象的なのは、君主ダビデを一人の牧者として立てる、という主の宣言でありましょう。
これは勿論、既にわれらが読んできてその生涯の事績や挿話について様々知る、統一王国イスラエルの2代目国王としてのダビデではありません。ここでのかれは、理想化された牧者としての存在。否、牧者というよりも“君主”としてのダビデであります。いうなれば、永遠の統治者としてのダビデなのであります。
ティンデル『エゼキエル書』の著者J.B.テーラーもいうように、ダビデの復活や王家の血筋にある人間の王を指すのではない(P237 いのちのことば社)。なぜならば、主の理想に適った統治者、君主、牧者こそダビデに他ならなかったからです。それは、「サムエル記」などを読み返してみると浮かびあがってくることであります。
かれがサムエルとサウルに見いだされる前、羊飼い(牧者!)であったのも、忘れてはならない点であると思います。また、無関係ではないと思います。
「さよなら」はできない。少なくとも、まだ。
〈となり〉にいてほしい人は、誰ですか?
気持ちがすれ違うことがあったとしても、
たがいの過去や現在がどうであろうとも、
求めるひとは、この世にたった一人だけ。
〈となり〉にいてほしい人はあなたです。◆
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