第1252日目 〈エゼキエル書第37章:〈枯れた骨の復活〉&〈一つとなる神の民〉withこんな夢を見た(その4);和菓子屋で働く女の子の夢なのだけれど、……〉 [エゼキエル書]
エゼキエル書第37章です。
エゼ37:1-14〈枯れた骨の復活〉
主の手がわたくしの上に臨み、主の霊によってわたくしは或る谷の真ん中へと連れ出された。そこは一面、甚だしく枯れた骨で埋め尽くされている、谷の四囲もまた同様で。
主が問うた、これらの骨は生き返るだろうか、と。わたくしは答えた、あなたのみがご存知です、と。主がいった、これらの骨に語れ、と。わたしはこれらの骨に霊気を吹きこむ。骨にはやがて筋が置かれて肉が付く。肉は皮膚で覆われ、それぞれに霊が吹きこまれる。かれらは生き返る。そうしてかれらはわたしが主であることを知る。
わたくしはその通りに預言した。すると、主の言葉のままに枯れた骨は肉体を得て生き返った。霊が四方より来たってかれらのなかに入った。かれらはとても大きな集団となった。
これらの骨はイスラエルの全家である、と主はいった。かれらは嘆いている、骨は枯れ、望みは失せ、滅びを待つ、と。否、とわたしはいう。エゼキエルよ、かれらに語れ、――
「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れてゆく。(中略)また、わたしがお前たちのなかに霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。」(エゼ37:12,14)
エゼ37:15-28〈一つとなる神の民〉
主の言葉、――
エゼキエルよ、一本の木を取れ。その上に<ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子らのために>と書け。
エゼキエルよ、それとは別の木を取れ。その上に<エフライムの木であるヨセフ及びそれと結ばれたイスラエルの全家のために>と書け。
民がその意味を問うとき、斯く答えよ。主なる神はこういう、と。
ユダの木とヨセフの木はわたしのなかで一本の樹木となる。わたしは諸国に散ったすべてのイスラエルをかれらの土地に連れてゆく。そこはかつて、わが僕ヤコブ(イスラエル)へ与えた土地である。その地には一つの王国が誕生する。もう決して分裂することのない王国が。わが僕ダビデが牧者として、君主として、永遠の統治者として、これを治める。王国の民は、自分たちや父祖が犯した数々の罪、過ちや背きによって汚されることは、二度とない。
「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」(エゼ37:26-28)
小見出しが複数ある章って、なんだか久しぶりです。ささやかな気分転換になりますね。ならない? あ、そう……。
閑話休題。
感動的な一章です。落涙を禁じ得ず、と定家卿みたく大仰なことは申しませんが、深々と心の奥の方へ染みこんでくる静けさがあります。小見出しに囚われず、枯れた骨の挿話もユダとヨセフの木の挿話も、別々のものとして読むのではなく、いわば「全にして一」といった具合に読んでみるのが最良かと存じます。
本音をいえば、こんなノートになんて頼らず是非本文にあたってほしい、と祈念してやみません。なお心を揺さぶるものがある、と、信じてやみません。
蛇足な一言を加えますと、枯れた骨とはバビロン捕囚や離散民の回復の比喩といいます。しかし、わたくしにはむしろ、民族としてのアイデンティティの復活、永遠の平和と繁栄と揺るぎなき信仰の約束、という風に読めることであります。読者諸兄は如何ですか?
和菓子屋さんを舞台にした国産ミステリが売れてますけれど。
けっしてそれに便乗するつもりは、まるでないのですけれど。
なにをいってもあとの祭り、って重々承知もしているけれど。
だって、こんな夢を見ちゃったんだから仕方がないじゃない。
――と前置きしておいて。
部屋を片附けていたら、一枚のメモを発見。なんじゃろうな、と目を通して、思わず背中が仰け反った。昨秋に見た夢の走り書きだった。ほぼ半年前ですな。嗚呼、思えば遠くに来たものだ……。
脱力するような内容な上に、どこぞの国営放送の朝ドラに似たものがあったな、ってデジャヴを起こしてみたり。
では、(ほぼそのまま)お披露目。――
女の子が和菓子屋に就職する。短大卒で元芸人。売り子のバイトではなく、作り手即ち職人として就職したんだ。実家や親類が和菓子屋とか、父が和菓子職人だった、ではない。
当然上手くなんかなく、半年ぐらい経ってもあまり上達は見られず。先輩(年下含む)から怒られたり、陰口を囁かれたりする日々。それでもなんとかやっているのは、意地と愉悦か。
或る日の閉店後、いつものように一人で練習している。女の子は餡をこねるのが下手。横っちょでさり気なく見ていた親方(?)から、「スジは良いんやね」といわれ、「でも、こねるのが下手で」と答える。「腰が入っていないんや」と親方(?)いう。
女の子は、腰が入っていない、という意味がよくわからず、試行錯誤してただひたすら餡をこねまくる。それを遠くから見て感動の涙を流している、かつての相方でいまは売れっ子になっている(らしい)〈弱虫セレブ〉。主人公の女の子はさしずめ、〈俄然強めの薄幸ボンビー・ガール〉か? じゃあ、イメージは亀井絵里だな。(2012/11/20)
――チャンチャラ可笑しくって、腰が砕けちゃいそうな夢の記録だ。むろん、寝ぼけ眼で走り書きしたから、意味も流れも通っていない。果たしてなんのことやら、と小首を傾げたくなるが、如何せんそんな状況下の作物ゆえ、ご寛恕願いたい。
しかし……肉附けしたらそれなりに読めるものとな理想な期待もしている。今秋から聖書読書ノートはしばらくお休みだから、その間に検討してみましょうか。ふむ。◆
エゼ37:1-14〈枯れた骨の復活〉
主の手がわたくしの上に臨み、主の霊によってわたくしは或る谷の真ん中へと連れ出された。そこは一面、甚だしく枯れた骨で埋め尽くされている、谷の四囲もまた同様で。
主が問うた、これらの骨は生き返るだろうか、と。わたくしは答えた、あなたのみがご存知です、と。主がいった、これらの骨に語れ、と。わたしはこれらの骨に霊気を吹きこむ。骨にはやがて筋が置かれて肉が付く。肉は皮膚で覆われ、それぞれに霊が吹きこまれる。かれらは生き返る。そうしてかれらはわたしが主であることを知る。
わたくしはその通りに預言した。すると、主の言葉のままに枯れた骨は肉体を得て生き返った。霊が四方より来たってかれらのなかに入った。かれらはとても大きな集団となった。
これらの骨はイスラエルの全家である、と主はいった。かれらは嘆いている、骨は枯れ、望みは失せ、滅びを待つ、と。否、とわたしはいう。エゼキエルよ、かれらに語れ、――
「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れてゆく。(中略)また、わたしがお前たちのなかに霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。」(エゼ37:12,14)
エゼ37:15-28〈一つとなる神の民〉
主の言葉、――
エゼキエルよ、一本の木を取れ。その上に<ユダ及びそれと結ばれたイスラエルの子らのために>と書け。
エゼキエルよ、それとは別の木を取れ。その上に<エフライムの木であるヨセフ及びそれと結ばれたイスラエルの全家のために>と書け。
民がその意味を問うとき、斯く答えよ。主なる神はこういう、と。
ユダの木とヨセフの木はわたしのなかで一本の樹木となる。わたしは諸国に散ったすべてのイスラエルをかれらの土地に連れてゆく。そこはかつて、わが僕ヤコブ(イスラエル)へ与えた土地である。その地には一つの王国が誕生する。もう決して分裂することのない王国が。わが僕ダビデが牧者として、君主として、永遠の統治者として、これを治める。王国の民は、自分たちや父祖が犯した数々の罪、過ちや背きによって汚されることは、二度とない。
「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。わたしは彼らの住居を定め、彼らを増し加える。わたしはまた、永遠に彼らの真ん中にわたしの聖所を置く。わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。わたしの聖所が永遠に彼らの真ん中に置かれるとき、諸国民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。」(エゼ37:26-28)
小見出しが複数ある章って、なんだか久しぶりです。ささやかな気分転換になりますね。ならない? あ、そう……。
閑話休題。
感動的な一章です。落涙を禁じ得ず、と定家卿みたく大仰なことは申しませんが、深々と心の奥の方へ染みこんでくる静けさがあります。小見出しに囚われず、枯れた骨の挿話もユダとヨセフの木の挿話も、別々のものとして読むのではなく、いわば「全にして一」といった具合に読んでみるのが最良かと存じます。
本音をいえば、こんなノートになんて頼らず是非本文にあたってほしい、と祈念してやみません。なお心を揺さぶるものがある、と、信じてやみません。
蛇足な一言を加えますと、枯れた骨とはバビロン捕囚や離散民の回復の比喩といいます。しかし、わたくしにはむしろ、民族としてのアイデンティティの復活、永遠の平和と繁栄と揺るぎなき信仰の約束、という風に読めることであります。読者諸兄は如何ですか?
和菓子屋さんを舞台にした国産ミステリが売れてますけれど。
けっしてそれに便乗するつもりは、まるでないのですけれど。
なにをいってもあとの祭り、って重々承知もしているけれど。
だって、こんな夢を見ちゃったんだから仕方がないじゃない。
――と前置きしておいて。
部屋を片附けていたら、一枚のメモを発見。なんじゃろうな、と目を通して、思わず背中が仰け反った。昨秋に見た夢の走り書きだった。ほぼ半年前ですな。嗚呼、思えば遠くに来たものだ……。
脱力するような内容な上に、どこぞの国営放送の朝ドラに似たものがあったな、ってデジャヴを起こしてみたり。
では、(ほぼそのまま)お披露目。――
女の子が和菓子屋に就職する。短大卒で元芸人。売り子のバイトではなく、作り手即ち職人として就職したんだ。実家や親類が和菓子屋とか、父が和菓子職人だった、ではない。
当然上手くなんかなく、半年ぐらい経ってもあまり上達は見られず。先輩(年下含む)から怒られたり、陰口を囁かれたりする日々。それでもなんとかやっているのは、意地と愉悦か。
或る日の閉店後、いつものように一人で練習している。女の子は餡をこねるのが下手。横っちょでさり気なく見ていた親方(?)から、「スジは良いんやね」といわれ、「でも、こねるのが下手で」と答える。「腰が入っていないんや」と親方(?)いう。
女の子は、腰が入っていない、という意味がよくわからず、試行錯誤してただひたすら餡をこねまくる。それを遠くから見て感動の涙を流している、かつての相方でいまは売れっ子になっている(らしい)〈弱虫セレブ〉。主人公の女の子はさしずめ、〈俄然強めの薄幸ボンビー・ガール〉か? じゃあ、イメージは亀井絵里だな。(2012/11/20)
――チャンチャラ可笑しくって、腰が砕けちゃいそうな夢の記録だ。むろん、寝ぼけ眼で走り書きしたから、意味も流れも通っていない。果たしてなんのことやら、と小首を傾げたくなるが、如何せんそんな状況下の作物ゆえ、ご寛恕願いたい。
しかし……肉附けしたらそれなりに読めるものとな理想な期待もしている。今秋から聖書読書ノートはしばらくお休みだから、その間に検討してみましょうか。ふむ。◆
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