第1255日目 〈エゼキエル書第40,41,42章:〈新しい神殿の幻〉withキング『ビッグ・ドライバー』を買ったは良いけれど、……。〉 [エゼキエル書]

 エゼキエル書第40-42章です。

 エゼ40:1-42:20〈新しい神殿の幻〉
 第25年1月10日、エルサレム陥落から14年後のその日、主の手が頭上へ臨んだ。わたくしは〈幻〉を見た。主の手に導かれた先は、未来のエルサレムであった。そこでわたくしは一人の青銅に輝く人と出会った。かれの手には測り竿と麻縄があった。
 かれはわたくしにいった、これからわたしのやること、話すことを心に、目に留めなさい、それを、バビロニアの同胞たちへ伝えなさい、と。
 向かった先には、見たこともない神殿があった。が、それは間違いなく、エルサレムの神殿であった。
 青銅の人は、門の入り口、脇柱や廊、格子窓、個々の部屋(たとえば控えの間や祭司の間etc)、焼き尽くす献げ物に用いる聖卓、拝殿や別殿、木製の祭壇、外壁や内壁など、神殿の内部や周囲を、東から南、西、北へと順番に廻り、あちこちをくまなく採寸した。棗椰子とケルビムの意匠が施されている部分が、とても多かった。至聖所は拝殿にあった。

 エゼキエルは主により測量作業に同行する幻を見た。「エゼキエル書」ならではの挿話と思います。イザヤやエレミヤには絶対に語れなかったこと、決して見ることのできなかった事柄。それは、解放された捕囚民がエルサレムへ帰還したあと、新しく建設することになる神殿、即ち第二神殿の作業指示であります。「エズラ記」で建設作業を進める帰還民は、エゼキエルが遺した指示に従ったことでありましょうか。
 神なる主は再三に渡って、ユダへ残る者に希望はない、希望はバビロンへ捕囚としていった人々のなかにある、といいました。ユダ残留民は様々な事情により姿を消してゆく。かれらに希望はない。仮にあっても、かれらには希望に応える体力も資力も、労力もない。
 すべて見越した上で、神なる主はあらかじめ定められた未来に従うよう、ユダの人々へ訴えてきました。が、それには攻めのぼってきた敵、新バビロニア帝国に屈して、かれらの国へ捕囚として連行されてゆくより他はなく。
 その恥辱に耐えながら信仰を回復させてゆき(詩86:11「主よ、あなたの道をお教えください。/わたしはあなたのまことの中を歩みます。/御名を畏れ敬うことができるように/一筋の心をわたしにお与えください。」また、詩137〈バビロンの流れのほとりに座り〉を思い出せ)、70年の歳月を過ごした者にこそ希望は託される。
 希望! エゼキエルにはわかっていた、バビロン在住の捕囚民にこそ未来の希望がある、と。主がそれを望んでいる、と。第二神殿の幻は、希望を託すべきかれらと生活を共にしているエゼキエルにしか見ることのできない、また伝えることのできない内容であった。その点が、明確にイザヤやエレミヤと異なる点であります。かれは希望を伝えたのです。
 3章まとめて原稿にしたのは、手抜きではありませんからね?



 S.キング『ビッグ・ドライバー』購入。もう何冊も未読の作品が溜まったろう。そろそろ本格的に消化作業を始めないとならない。『リーシーの物語』以後は短編集しか読んでないんですよね。あ、石も缶も投げるのヤメテクレ。◆

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