第1329日目 〈アモス書第5章:〈悲しみの歌〉、〈わたしを求めて生きよ〉他with思い出が好みを作ることもある。〉 [アモス書]

 アモス書第5章です。

 アモ5:1-3〈悲しみの歌〉
 主が悲しみの歌を唄っている。聴け、北王国の民よ。
 ――おとめイスラエルは倒れて二度と起きあがらない。地に捨てられた少女を助け起こす者はない。町から出た1,000の軍勢は100人を残して滅び、町から出た100の軍勢は10人を残して滅ぶ。

 アモ5:4-15〈わたしを求めて生きよ〉
 イスラエルの家よ、どの神にも助けを求めて行くな。ギルガル、ベテル、ベエル・シェバのいずれにも。あなたたちはわたし一人を支えとし、求め、生きる民。背いたり抗ったりすれば、ヨセフの家は劫火に焼かれる。ベテルでの偶像崇拝の罪により、その火を消せる者はどこにもいない。――と、主はいう。
 「裁きを苦よもぎに変え/正しいことを地に投げ捨てる者」(アモ5:7)よ、わたくしアモスの言葉を聞け。全地を創造し、天空を創造し、夜を朝に変え、昼を夜に変え、海の水を集めて地の面へ注ぐ方、その御名は主。その主が砦に破滅をもたらし、砦の堅固なる守りも破滅させる。
 イスラエルの民は町の門で訴えを公平に裁く者を憎み、真実を語る者を嫌う。弱き者、低き者から穀物の貢納品を乱暴に取り立てる。為、かれらは切石で造った家には住めず、ぶどう園で採れたぶどう酒も飲むことができない。お前たちの咎がどれだけ拭い難く、大きいか、わたくしは知っている。正義を信奉する者を目の敵にし、賄賂を得て私腹を肥やし、心か弱き小さな者の訴えを踏みにじる。人の大切な想いを嘲笑する。お前のことだ。
 民よ、悪を憎み、善を尊び、正義を貫け。
 そうすれば、主はヨセフの家の残りの者を顧み、憐れんでくれるだろうから。

 アモ5:16-20〈裁きの日〉
 裁きの日、主の日。それは闇、光にあらず。それは暗闇、輝きにあらず。

 アモ5:21-27〈祭りにまさる正義〉
 わたしは、と主がいう。どんな祭りも献げ物も喜ばない。歌声と音楽を遠ざけよ。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように押し流してしまおう。 
 荒れ野を放浪した40年の間、お前たちはわたしにどんな献げ物をささげただろうか。お前たちは自分たちの手で拵えた偶像を崇めたり、御輿にして担いだりしている。
 代償として、お前たちをダマスコの向こうの国へ捕囚として連れて行かせる。

 前夜の項で申し上げましたように、本書のキモとなる章に到着しました。「アモス書」は正義を訴える。公平を訴える。そのエッセンスともいえるのが本章なのであります。正直なところを申せば、「アモス書」は本章のみ読んでおけばいいのではないか、と、そんな不遜なことを考えます。もう少しいえば、〈わたしを求めて生きよ〉と〈裁きの日〉だけでもじゅうぶんかな、と考えているのも事実であり、本音なのであります。
 ……文章をもうちょっとシンプルにしたいのですが、なかなか徹底させられません。毎日、<豊かで簡潔な>文章が書ければいいのですが、四半世紀も文章を書いてきて、それがいっかな出来ずにいる、というのは、反省したいところであります。佶屈なところ、なだらかでないところ、色々ありましょうけれど変わらずお読みいただけると幸甚と存じます。



 思い出が好みを作ることはあると思います。好きだった人が夢中になっていたアニメやコミック。憧れの人が大事に読んでいた詩集や小説。わずかの期間、仕事を共にした人が聴いていた音楽。両親が若い頃に観て大事な思い出を作った映画。モータースポーツ、山登り、ヨット/クルーザー、スキューバダイビング、自衛隊、コーヒー、アロマ、etc.
 ――思い出のなかにいる人が好きだった、というだけで最初はそれらへ手を伸ばし、気附けばすっかり入れこんでしまっていた。そんな経験を持つ人が、本ブログの読者に何人かはいる、と信じます。
 たとえば? 卑近な例として自分を俎上に上せば、ボーイズ・ビー・クワイアという少年合唱団がある。20世紀後半以後の現代音楽と、ジャズがある。俳句がある。コーヒー&カフェがある。そうしてなによりも、(忘れてならない)聖書がある。そこから無限に拡散してゆく豊饒の世界が、道の先に広がっている。
 あなたはどうだろう? なにがある? 思い出せないか? 無理だろうか?◆

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