第1330日目 〈アモス書第6章:〈驕れる人への審判〉withゲーテ『ファウスト』を読み直してみようか、……〉 [アモス書]

 アモス書第6章です。

 アモ6:1-14〈驕れる人への審判〉
 エルサレムに安住し、サマリアで安逸を貪る者は災いである。諸国へ君臨する者、即ちアッシリアに従っているのだから。災いの日の訪れを一日でも先延ばししようとするから、不法による支配を受け入れているのだ。
 <今日>という日を思う存分に享楽して、やがて来ると預言された滅びの日について憂うことがない。かれらはその行いゆえ捕囚の列の先頭を行く。二度と象牙の寝台に寝そべったり、酒宴や異性の体を楽しむことはできない。
 わたしはヤコブが誇る神殿を忌み嫌い、城郭を厭う。サマリアの都とそのすべてを敵の手に渡してしまおう。わたしは命じる、大きな家を打って粉々にし、小さな家を打って塵芥とせよ、と。常ならそんなことはゆめあり得ぬのに、お前たちは自分の所業ゆえに裁きを毒草に変え、恵みの業を苦よもぎに変えてしまった……。
 ――イスラエルの家よ、わたしはお前たちに対して一つの国を興す。その国はレボ・ハマトからアラバの谷に至るまで、お前たちを苦しめる。

 「もし、一軒の家に男が十人残っているなら、彼らも死ぬ。親族と死体を焼く者が、彼らを家の中から選び出す。そのとき、一人が家の奥にいる者に、『まだ、あなたと共にいる者がいるのか』と尋ねると、『いない』と答え、『声を出すな、主の名を唱えるな』と言う。」(アモ6:9-10)

 ヤロブアム2世の御代に北王国イスラエルはその領土を最大まで押し広げました。その広大な版図を指して、「レボ・ハマトからアラバの谷まで」と表現します。この箇所はイスラエル全域を、主が興した<一つの国>アッシリアが支配下に置く日が来る、というのであります。
 第9-10節についてはどう書き換えればよいのか結論を出せなかったので、ご覧のように引用という形でお茶を濁してしまいました。注釈書や研究書など繙くとさまざま説明が出ていますが、わたくしがむしろ知りたいのは、この2節がなぜこの<審判の言葉>の途中に書かれているのか、なのです。それに答えを与えてくれる本は、残念ながらわたくしが読み得た範囲にはありませんでした。これについては意味をもっときちんと把握した上で本文のなかに塗りこめられるよう、今後も課題として残してゆきたいと存じます。
 内輪話になりますが、本章はなぜか全然筆が進まず、集中することもできなかったところでありました。思うような自分の文章へ移し換えることが困難だったのですね。上でもほぼ同じことを述べましたが、機会あれば改稿の筆を施したいと思うております。



 高校時代にゲーテ『ファウスト』を読んだのは、第2部にある運命の女神たちの言葉を確認したかったから。きちんと読めたというには自信がないが、古本屋で買った池内紀『ゲーテさんこんばんは』(集英社文庫)を契機に、そろそろ読み直してみようか、そう望んでいる今年になって177日が経つ今日なのであります。◆

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