第1361日目 〈諦めた想いと未来;ストックホルムの宵刻のカフェにて。〉 [日々の思い・独り言]

 「ぼくがどれだけ疎んじられ、嫌われていたか、いまになってはっきりとわかるよ」
 唐突にかれはいった。ストックホルムのカフェでコーヒーを飲んでいたときのことだ。そう笑いながらいうかれの、しかし、その目は笑っていない。背筋が凍るぐらいに透き徹った目だった。
 「辞めると報告したときは、その場に安堵の空気が流れたのを肌で感じたよ。まさかそこまで疎んじられていたとはね……」
 コーヒーを一口飲み、ワッフルを二口齧って、かれは続けた。「本当のことが知りたかっただけなんだ。なのに、事実はただの一つも語られなかった。そんなに迷惑で、いう価値のないことだったのか? 憶測と自意識過剰と偏見に塗られた思いこみを、異動先のチームの上司へまことしやかな話へ仕立てたあの子を軽蔑するよ。最低だ」
 あすこは殺人株式会社だ、あの子は影の総領だ、とかれは語った。退職するとき、皆の反応と視線に薄ら寒いものを感じたよ。この連中、殺人株式会社の連中だ、と直感したね、と、かれは繰り返した。
 かつての職場は、思い出すのも苦痛な場所となった。かれにとってそこは最後の安住の地となるはずだったのに。3月。惨めな幕切れへの序曲。――進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。満身創痍となろうとも、誇りに満ちた一生を。――
 コーヒーを飲み終えたかれはカップを置いて、しばらくその表面に描かれた幾何学模様を眺めていた。目は焦点を結んでいない。その瞳は濁った冬の海の色をしている。わたくしのいる席からはそう見える。深爪が痛々しい右手の人差し指の腹で、カップの握りのゆるいカーブを何度も撫でる。
 どれだけの時間が経ったろう。カフェの男性店員が外へ姿を見せ、ちら、とこちらへ目をやった。すぐに視線を外してテーブルや椅子の片附けに意識を集中する。もっともそれは外見からの判断で、かれの意識は絶えずこちらへ向けられているのがわかる。早く出ていってくれないかな、と独りごちているかのようだ。
 「たぶん、ぼくはずっと一人でいるよ。ふらふらしていた自分が悪いんだ。ツケが回ってきた、というべきなのかな。ここへ逃げ出してきたぼくは本当に弱い人間だね。日本の反対側まで来てもあの子を憎んだり忘れることができなかった。彼女が一切合財を拒絶したのは、結果的に最良の選択だったのかもしれないね。勿論、彼女自身にとっては、ということだけれどね。まあい、いいさ。これを機会に、ぼくは表舞台から姿を消すよ」
 貴重な恵みを与えてくれる太陽は西へ傾いて山の稜線に姿を隠しつつある。闇の訪れだ。
 なにも変わらないのかな、とわたくしは訊ねてみた。きみの人生がこのまま闇に閉ざされてしまってもいいのか、と。
 かれは向かいの席に坐るわたくしをじっと見た。弱々しい眼差しを投げるかれの瞳は、諦念に彩られたそれと、いまでは見える。一片の感情もこもっていないその眼差しが、後日空港でかれの帰国を見送ったあとまでわたくしの胸に残った。
 頭を振ることも首を縦に振ることもせず、肯定するでも否定するでもなく、かれはたった一言、「帰ろうか?」というただけだった。
 帰ろう。
 が、わたくしは知っている。皆様も知っている。今日、かれが件の女性とぶじ結婚まで漕ぎ着けたことを。友よ、信じられなかった未来が訪れたことを心からうれしく思う。◆

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