第1389日目 〈「マラキ書」前夜withうん、ワーカホリック……?〉 [マラキ書]

 「ホセア書」で始まった12小預言書も本書「マラキ書」を以て最後になりました。欠落分は別として、旧約聖書で最後に読む書物であります。足掛け5年、実質4年を費やしてようやくここへ至った幸運を喜びたく思います。サンキー・サイ。
 マラキは位置的に旧約聖書の掉尾を飾るのみならず、時間的にもいちばん新しい書物です。預言書というカテゴリーに含まれているけれど、むしろ当時の人々に正しい信仰とはなにか、と考えさせるのを促す性質の方が強いように思います。従来の、これまで読んできた預言書とは一線を画す、とまでは主張できないのが残念ですが、そうであってもこの小さな書物は相応に特徴のあるものである、とはいうことができるでしょう。
 タイトル・ロールを務めるマラキ(「わたしの使者」)が活動したのは、エズラ-ネヘミヤ時代より後のことでした。既にハガイもゼカリヤもこの世になく、ゼルバベルもヨシュアもいない時代。既に神殿の再建工事は完了し、エルサレム住民の心が再び主から離れて、異教民の娘との雑婚が始まっている時代。そうして、主の御名は日沈む国から日出づる国に至る諸国で崇められ、畏れられ、香が焚かれて清い献げ物がささげられている時代。マラキはそんな時代に生きて預言者として活動しました。
 かれの時代、<預言者>の意味合いは多少なりとも変化していたように感じます。未だダビデとソロモンの国が存続し、それゆえに外敵の脅威に頭を悩ませ、心を恐怖させていた頃、預言者たちは主の前に立ち帰るのみならず、最後に訪れる審判の日、主の日に備えて、敵国の捕囚となって恥辱の時を過ごして主への畏怖や信仰を取り戻せ、という旨の(やや荒療治に等しい)メッセージを発し続けました。
 が、マラキの場合はちょっと勝手が違います。時代背景が大きく異なるのですから、勝手が違うのも当たり前ですが、かれが民に向けたメッセージは、むしろ神の民として正しくあるために現在(いま)の態度を改めよ、という点に比重が置かれているように(読んでいて)感じます。悔い改めの勧告――これにすべては集約されているように感じたのであります。
 勿論、未だ預言され続けてきた審判の日、主の日は訪れていませんので、「マラキ書」でも最後に主の日の訪れを預言する言葉が置かれています。それは旧約聖書の〆としてはやや厳しいものです。読者の予想、「こうであってほしい」という締め括りへの願望は、微塵もなく打ち砕かれます。しかし、かれはここで遂に旧約聖書の時代には訪れることのなかったメシアの降臨が次の、全く新しい時代に実現する希望を――結果的に、というべきか、必然的に、というべきかわかりませんが、とにかく新約聖書の時代へ――つなげたのでした。なによりも最後の最後でモーセの律法が思い起こされ(マラ3:22)、火の戦車によって嵐のなか天へ上っていった預言者エリヤが再びユダヤの民に遣わされると主により告げられる(マラ3:23)点に、そのあたりは尽くされているようであります。預言者エリヤについては第3章にて改めて取り挙げるつもりです。
 それでは、明日から「マラキ書」を読んでゆきましょう。



 1日程空けるつもりでしたが、ワーカホリックな性格(呵々)はそれを許しません。なにしろ毎日なにかを書いていないと気が済まないものですから、予定を早めて本日より「マラキ書」ノートをお披露目することに致します。◆

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