第1409日目 〈創世記第8章:〈洪水〉3/3with台風18号の被害に遭われた方々へ。〉 [創世記]

 創世記第8章です。

 創8:1-22〈洪水〉3/3
 全地に雨が降り注ぎ、洪水となり、地上で動いていた肉なるものはすべて呑みこまれて息絶えた。ただ、神の好意を得て神に従って歩く者であったノアと、その家族、神がノアに集めて船に乗せよ、と指示したつがいの動物たちを除いて。かれらが乗った方舟は洪水が勢いを失うまでの150日、波間を漂ったのである。
 神は方舟に乗るノアたちと動物すべてを心に留めていた。深淵の源と天の窓が閉じられたことで雨はようやくやんだ。風が吹き、水は徐々に引いていった。神がノアらを慮ってのことである。そうして第7の月17日に方舟はアララト山の頂に着底した。以後も水はどんどん減ってゆき、第10の月1日になると山々の頂が水の下から顔を出した。
 アララト山に着いて40日後、ノアは一羽の烏(からす)を放った。が、まだ水は引ききっていなかったため、烏は方舟の窓から出たり入ったりを繰り返していた。
 そのあと、ノアは一羽の鳩を放った。水が引いて地が乾いたかを知るためである。が、鳩はすぐに戻ってきた。7日後、ノアは再び鳩を放った。夕方になって鳩は戻ってきたけれど、くちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは三度、鳩を放った。今度は待てど暮らせど鳩が戻ってくることはなかった。
 ノアは601歳になった年の最初の月、方舟の覆いを外して地上を眺めた。水は引き、地は乾いていた。とはいえ、大地が完全に乾くのは、その年の第2の月27日のことだが。
 神がノアにいった、人も動物も皆外へ出なさい、と。地に群がって地上で子を産み、増えるよう励みなさい。――その言葉に従って皆、方舟から出てその足で土を踏み、その翼で空を飛んだ。
 ノアは主のために祭壇を築いた。すべての清い家畜と清い鳥のうちから取って、焼き尽くす献げ物をささげた。
 主はその宥めの香りをかいで、心のうちでこういった。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。/地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」(創8:21-22)

 神は自分の行いを省みて反省した。もう二度と人の行為ゆえに地を呪うことはすまい、と。旧約聖書の神は言葉を以て行動する存在であると共に、自分の行いを点検して後悔した後反省して斯様な愚行はわが創造物のためにも繰り返すまい、と誓うことの出来る、なんとも人間くさく、それがためにその怒りの凄まじさを想像できる存在であった。でもこうした姿(?)を見るからこそ、後世に於いて主なる神が嗣業の民に降す数々の怒りや裁きが愛の裏返しであることを痛感するのです。
 ――前段にてわたくしは「神」といい「主」と述べました。これまでの「創世記」のブログ原稿でもそうなっているはずです。どうしてこんなことを言い出すか、といえば、わたくし自身まだ「神」と「主」の使い分けについて、ちゃんとした定義を持っていないからであります。
 聖書の文章、場面ではどちらの語が使われているかを以てブログ原稿もそれに則る、とは決めていますが、逆にがちがちに使い分けの基準を設けてしまうと却って柔軟性を失い、フレキシブルな対応が出来なくなるように思えてなりません。使い分けということについていえば、精々が、単独であるときは<神>、人に働きかけるときは<種>と分けることにしていることぐらいですか。むろん、それとて絶対的なものでないことはいうまでもないでしょう。
 この点について読書に用いている新共同訳以外の日本語聖書を読んでみても、殊「創世記」前半についてはそれも同工異曲の感を免れず、では英語やドイツ語の聖書を傍らに侍らせせ都度黙考すればよいのか、さもなくばヘブライ語や70人訳ギリシア語の聖書を都度参照するためそれらを揃える図書館へ日参すればよいのか、解決方法は幾つかあると雖も、とてもではありませんが実行は難しいものばかりであります。いやはやなんとも。呵々。――
 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」とは、まあ所詮は希望でしかなく、また、全人類に対してはしないけれども、という但し書き付きの言葉でしかないのでしょう。個人に対してはひどく近いことをやっていたような覚えがありますからね。
 続く「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」も、慎重にその意味を汲み取る必要があるでしょう。そも洪水は自らの創造物である人間がいつの間にか悪事を企んだり邪な考えも抱くようになったことが原因で起こりました。変な物言いですが、「一回この世界――悪巧みを描く人間に満ちたこの世界をリセットして、そのあとで新しい人間の世界を造り直そう」という神の意向を反映したのが、40日40夜に渡る雨と洪水なのでした。
 <そのあと>の世界の担い手に、神なる主はその世代に於いて唯一義の人であったノアとその家族を選んだ。そうして起きた洪水によって悪を企む輩は一掃されたはず。なのに、神の件の台詞です。それだけ人の心に悪は根強く巣喰っており、いわばDNAに組みこまれたどうにもしようがない本能であり、けっして取り去ることのできないものなのでありましょう。スティーヴン・キングの小説『ザ・スタンド』のテーマの一つは、<解決手段に一つとして本能に組みこまれた暴力>でありますが、旧約聖書を読んでいてたびたびそれを思い起こすことがあったことを告白しておきます。
 ――ケネス・ウォーカー著・安達まみ訳『箱船の航海日誌』(光文社古典新訳文庫)ハノアの方舟と洪水の物語をベースに創作された英国児童文学の傑作ですが、いままでわたくしが申しあげてきたことともつながる部分がありますので、いちど手にして読んでみてください。たぶん作者はこの作品の依頼を受けたとき、<そのあと>の世界にも悪がまだしぶとくあり続け、かつ蔓延していったことに自分なりの見解を与えようとしたのだと思うのであります――スカブという存在を使って。……こんな風なことは別としても、これはなかなかに楽しめる、そうして奥の深い作品。方舟に押しこまれた動物たちが不平不満を募らせ、ノアたちがそれに対して心労を重ねてゆく様子には、本当に頬を緩ませるぐらいの面白さがあります。



 台風18号によって昨日までの生活をなくされた方々へ謹んでお見舞い申しあげます。
 復旧と回復の日が早く訪れて生活が再建されますことを願っております。◆

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