第1414日目 〈創世記第12章:〈アブラムの召命〉&〈エジプト滞在〉with人生模様〉 [創世記]

 創世記第12章です。

創12:1-9〈アブラムの召命〉
 ハランを離れよ、わたしが示す地カナンへ行け。――主はそうアブラムにいった。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福する。あなたが祝福の源となるように。わたしはあなたを祝福する人を祝福し、あなたを呪う人を呪う。地はすべてあなたによって祝福に入る。
 主の言葉に従い、アブラムは妻サライ、甥ロトを連れ、それまで蓄えたすべての財産を携えて“主の示す地”カナンを目指して出発した。当時アブラムは700歳。一行はカナンへ入り、シケムの聖所、モレの樫の木のところまで来た。周囲に住むはノアの末子ハムの子カナンを祖とするカナン人であった。
 あなたの子孫にこの地を与える。――主はそうアブラムにいった。かれはシケムに主のための祭壇を築いた。しかしかれらはそこに逗留しなかった。
 シケムを発つとアブラムはベテルの東にある山まで来た。西にベテル、東にアイを望む位置に天幕を張って、かれらは住んだ。そこでもかれは主のための祭壇を築き、そうして主の御名を呼んだ。しかしかれらはそこへ逗留しなかった。そのあとアブラムたちはネゲブ砂漠まで南下した。

 創12:10-20〈エジプト滞在〉
 アブラムの妻サライは美しかった。かれをして悠久の希望を抱かせる程の美しさであった。
 ネゲブ地方を襲った飢饉の非道さゆえそこをあとにし、エジプトを目指す一行であったが、その国に入る前アブラムは妻サライにこういった。エジプト人は皆、お前の美しさに陶然とし、夫たるわたしを殺そうとするだろう。だからあなたはわたしを夫と呼ばず、どうか兄と呼んでほしい。そうすればわたしは殺されずに済むであろう。サライはそうした。
 案の定、エジプト人は老若男女、サライに羨望し、恍惚とし、欲情し、陶然とした。やがて評判はファラオの耳にまで届いた。ファラオはさっそくサライを召して妻とし、“兄”アブラムに多くの財宝を与えた。
 ――と、主がそれを見て、ファラオと廷臣を恐ろしい病気に罹らせた。ファラオは事実を知り、アブラムを呼んで詰った。なぜ妹などと偽ったのか、さあ、何処へも行ってしまえ。
 為、アブラムとサライ夫婦はエジプト国外へ追放されたのである。

 シケムはエバル山とゲリジム山の間にある町ですが、モレとは? ここはシケム近郊にあったとされ、町や村というより聖所を擁する場所である由。その近くに樫の木があるのですが、これは次章で読むヘブロンにあるマムレの樫の木についても同じでありましょう。
 シケムはこのあと何度も出て来るので、既に読者諸兄には耳に馴染んだ地名かもしれません。イスラエルはこの地で祝福か呪いかの選択を迫られ(申11:29-30)、後にはこの地に於いてサウル-ダビデ-ソロモンの王国が南北に分裂する事件があったのであります(王上12)。シケムは選択の場、決断を促される場と捉えておくとわかりやすいのでしょうね。
 昨日、わたくしはアブラム一行はカナン目指してウルを発ったのではなく、北のハランをそもそもの目的地としていたのではないか、と述べました。その根拠としたのが<アブラムの召命>に見る主のカナン行きの指示であります。記述が前後に錯綜している点が「創世記」に目立つ特徴の一つと思います。今回に於いてもそれは例外ではないでしょう。
 エジプト滞在の挿話は果たして必要か? 初読のときから疑問でなりませんでした。殺されるかもしれない、という危惧を抱いたアブラムが、危険回避のために妻を妹と偽り命拾いをし、かつ宝までも得て金満家となる、ずいぶんねじくれた挿話のように思えてならなかったし、実を申せばいまでもその感想は変わりません。
 この点についてデレク・ギドナーはティンデル『創世記』でこう書いています。少し長くなりますが、引いておきます。「あらゆることが明らかにしていることは、アブラムが神に尋ねるために立ち止まることをせず、神以外のことをすべて考慮に入れ、自分自身の考えを優先したということである。(中略)この物語のいちばん重要な点は、この物語が、土地と民に関する約束とどのような関連にあるかということである。このことは、アブラムのヴィジョンが絶えず挑戦を受けたということと並んで、これらの章の真の主題となっている。ここにおいて、餓えと恐怖と富に初めて出会い、ヴィジョンは失われ、みわざ全体が危険にさらされた。サライを本来の導きに戻らせるためには疫病が必要であったし(17節)、アブラムをカナンに帰らせるためには退去(20節)が必要であった」(P144-5)
 然るにアブラムの行為とそれに伴う結果を正し、本来の役割、本来の土地へ帰らせるために斯様な行いは必要であったのであり、と同時に主のみわざの顕現によってエジプトがかれらの神の力を思い知ることも必要だったのであります。



 判で捺したような生活を嫌う人がいる。ルーチンに組みこまれることを厭う人がいる。
 判で押したような生活を好む人がいる。ルーチンに組みこまれることを望む人がいる。
 望むものを概ねすべて手に入れられる人がいる。それが当たり前のように思う人がいる。
 望むものを全てさらいとられてしまう人がいる。それに馴らされてしまった人が、いる。
 望む人との生活を手に入れたくて力を尽くしても、かなわぬ希望になる人もいる。
 ささやかな希望が奪われて、ささやかな願いが踏みにじられることもある。
 ――たぶん、それは人生なんだ。◆

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