第1421日目 〈創世記第18章2/2:〈ソドムのための執り成し〉with斎藤孝『15分あれば喫茶店に入りなさい』を(数年ぶりに)読みました。〉 [創世記]

 創世記第18章2/2です。

 創18:16-33〈ソドムのための執り成し〉
 アブラハムの天幕を発った3人の客人は、低地の町ソドムを見おろす場所まできた。アブラハムも客人たちを見送るため、そこまで来ていた。
 主はいった、なにをアブラハムに隠す必要があろうか、とかれは諸国の父となり、諸国民はかれゆえに祝福に入る。「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムと約束したことを成就するためである。」(創18:19)
 ソドムとゴモラの罪はとても大きい、と訴える声がある。それが本当であるかどうか、では確かめよう。
 2人の客人がソドムへ向かった。アブラハムはそこに留まる主の前にいた。かれは主に向かって、いった。曰く、――
 あなたは正しい者と正しくない者の別なくあの町は滅ぼされるのですか。正しき者の在るがゆえにあの町が赦されることはないのですか。「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずがありません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(創18:25)
 主はアブラハムとの問答のなかで、いった。ソドムに50人であれ10人であれ正しい者がある限り、わたしは町を滅ぼさない、と。そのあと、主はアブラハムの前から去り、彼も自分の天幕へ帰っていった。

 アブラハムはソドムのために主と交渉し、正しい者の在る限り滅ぼさない、と約束させるに至り、かれは自分の天幕へ帰っていった。――果たしてアブラハムは安堵したであろうか。そこにわずかでも正しい者はいる、と信じて安心して、主とその御使いを迎えた天幕へ帰っていっただろうか。思いは裏切られるのか、報われるのか――その顛末を同じ丘から見おろしたとき、いったいかれの胸中に飛来したのはなんだったでありましょうか。
 これは裏を返せば、正しい者が1人でもあるなら主はその人ゆえに町を滅ぼさない、という希望でもある。いくらなんでも正しい者が誰もいない町などあり得ようか。今日のわれらならばそう思う。が、どうやら旧約聖書の時代はそうとは限らないようだ。既に皆が皆ソドムとゴモラの行く末は知っているけれど、それが如何に為されたかを知る人は実は案外と少ない。その過程を本ブログに於いてようやく知ったという人が、数人でも現れてくれれば嬉しいです。



 ブックオフの105円コーナーで斎藤孝『15分あれば喫茶店に入りなさい』(幻冬舎)を見附け、読んでみたのは発売から間もない時分のこと。早々に処分したのがいまになってまた読みたくなり、同じブックオフの105円コーナーで買ってきた。
 ここに書いてあることは、本書の出版以後にカフェや喫茶店で資格取得のための勉強を行う学生・社会人、或いは創造行為に勤しむようになった人々には有益な情報が詰まった一冊かもしれないけれど、それより前からのカフェ・喫茶店利用者には「なにを今更……」という内容が過半を占めるのではないか。少なくともここから著者ならではの利用法を見附けることは、まず不可能といえるだろう。宿題や受験勉強に勤しむ中高生や資格取得のための勉強を行う学生・社会人の、もっと肝の据わった使い方を取材、紹介してくれた方がよほど首肯できる一冊になっていただろうに。
 成る程、利用者にとって漫画喫茶はだらけることしかできない場であり、マクドナルドは創造行為に向かぬ場であるのか、と、普段これらを使うことの殆どないわたくしには、有益といえなくもない<情報>だったが、逆にいえばその程度でしかないのだ。著者のように執念を燃やすには至らぬだろうが、隅っこの席が空いたら移動したいと思うのは、常用者ならも同じだろう(わたくしとて例外ではない)。一つの仕事を終えて次の仕事にかかる際、店を変えるのは無意識に行うことではあるまいか、と思うのだが。
 ただ、本書の装丁は内容に相応しい。◆

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