第1426日目 〈創世記第22章:〈アブラハム、イサクをささげる〉&〈ナホルの子孫〉with口にしてはならぬ名前。〉 [創世記]

 創世記第22章です。

 創22:1-19〈アブラハム、イサクをささげる〉
 これらのことがあったあと、いよいよ主はアブラハムを試した。
 ――主は、イサクを連れてモリヤの地にある自分が命じた山へ登れ、といった。そこであなたは息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい。
 アブラハムはイサクと従者を伴ってモアブへと発った。3日目、遠くにモリヤが見えた。アブラハムは従者をそこに残し、薪を背負ったイサクを連れてかの山を目指した。
 途中イサクが、献げ物にする羊はいったいどこにいるのか、と父に訊ねた。アブラハムは、案ずるな、と答えた。きっと主が用意してくれる。
 やがてかれらはモリヤの地、主が定めた山に到着した。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ――息子イサクを縛って祭壇の上に寝かせた。アブラハムは一瞬間も迷わなかった。かれは持ってきていた刃物を手にし、振りあげ、わが子を屠ろうとした。そのとき、――
 ――天から主の御使いが降ってきて、やめよ、といった。なにもしてはならない、いまあなたがまこと、主を畏れぬ人であることがわかった。独り子をささげることになんのためらいもなかったのだから。
 アブラハムは周囲を見渡した。木の茂みに一頭の羊がいたので、かれはそれを屠って焼き尽くす献げ物とした。
 御使いがアブラハムに、主の言葉を伝えた。曰く、――
 「わたしは自らに賭けて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしに聞き従ったからである。」(創22:16-18)
 アブラハムとイサクは待たせていた従者と合流してベエル・シェバに帰った。アブラハムは175歳で世を去り、2人の息子によってマクペラの洞穴に埋葬される(ex;創25:7-10)までの間、ベエル・シェバに住んだ。

 創22:20-24〈ナホルの子孫〉
 カルデアのウルに残った弟ナホルからアブラハムに連絡があった。
 ナホルとその妻ミルカに8人の子供が生まれた。長男はウツ、次男はブズ、次がケムエル、続いてケセド、ハゾ、ピルダシュ、イドラフ、ベトエル。ケムエルはアラム人の父、ベトエルはリベカの父となった。
 また、ナホルと息女レウマの間にも子供が生まれた。テバ、ガハム、タハシュ、マアカである。

 主への揺るぎなき信仰心、絶対なる信頼を図る試練として、息子を焼き尽くす献げ物としてささげよ、というのは非道といえばいえましょうが、わたくしは寧ろそこに古代の人々が持っていた信念の頑なさを見る思いがいたします。
 イサクもそれを甘んじて受け入れたのだろうか。父になんのルサンチマンも抱かなかったのだろうか。アブラハムは息子を殺めることの罪悪感よりなお主への信心、畏怖の方が優っていたのだろうか。
 そうしたことを押し隠す――抑え付けて主への奉仕に勤しむことができる頑なさに、寧ろ嗟嘆したいのであります。
 モリヤに到着するにはベエル・シェバから徒歩3日の行程というから、一説にそこは後にエルサレム神殿が築かれる山である、とされ、また一般に高所の意味でしかない、とする考えもある。モリヤは「主が顕現する山」の意味であります。
 ベトエルの娘リベカについては創24を待つとしましょう。



 読んだ端から捨ててゆける小説家の本を読んでいると、いつもながら「お金返せ!」と叫びたくなる気分に襲われる。それなら読まなくてはいいのではないか、と親切に忠告してくれる方もおられるが、どっこい、そうはいかぬが世の習いというものだ。
 書評を頼んできたならその本送ってくださいよ、とお願いしたくなるが、そこは力関係ゆえに出した拳を知れず引っこめ、自腹を切ることになる。それで原稿料が単行本と交通費とカフェ代を足してやや余りが出る、という程度の額なら、正直やってられないな、と頭を振りたくなる。
 で、そうしたときってたいてい嫌いな作家の本だったりするんだ。そうなるともはや読書は時間の浪費、頼まれ仕事なら徒労でしかない行為だ。読書を罰せられぬ悪癖、と呼ぶ文学者がずっと昔にいた。好きな本だけ読んで過ごすなら罰せられぬ悪癖という言葉に大いに頷くところはあるのだけれど、それがそうでない本となった日には、もう、ね……。
 さて、ところでさんさんかは誰の小説を書評せねばならなかったか。名前は伏す。彼女の名誉を慮ってのことではない。ヴォルデモート以上に<口にしてはならぬ名前>がこの世にはある。わたくしにとってその女流作家は筆頭格。沈黙こそが最良の批判ならば名を明かさぬは最良の侮蔑というてよいだろう。
 どうしてこの人の作品が江湖に受け入れられ、直木賞まで受賞しているのか、ライトノヴェルから一般文芸の分野に進出できたのか、その理由が、或いは、その読書日記に顔を出す脳天気な担当編集者たちが嬉々としていられる理由が、皆目わからぬでいるのはこちらの老化現象なのであろうか。
 ――新作を読んでも受け入れられぬという告白が、もはや時代遅れの弁と取られかねないことは承知している。◆

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