第1454日目 〈創世記第37章:〈ヨセフの夢〉&〈ヨセフ、エジプトに売られる〉with11月01日は「自衛隊の日」であるらしい。〉 [創世記]

 創世記第37章です。

 創37:1-11〈ヨセフの夢〉
 末子ヨセフは年寄り子であるがために父ヤコブから溺愛されて育った。それは兄たちの妬みを買うにじゅうぶんであった。
 或る日、ヨセフは自分が見た夢を兄たちに語って聞かせた。兄弟皆で束を結わえていると、わたしの束だけが起きあがり、兄さんたちの束はその前にひれ伏したのです。――兄たちはその夢ゆえにますます末弟を憎んだ。
 或る日、ヨセフは自分が見た夢を父と兄たちに語って聞かせた。今度はこんな夢を見ました。太陽と月と11個の星がわたしにひれ伏していたのです。――兄たちはその夢ゆえにますます末弟を憎んだ。が、父はこのことを心に留めた。

 創37:12-38〈ヨセフ、エジプトに売られる〉
 或る日、父ヤコブがヨセフに、シケムまで行って兄たちが飼っているわたしの羊の群れを見てきてほしい、と頼んだ。ヨセフは諾い、シケムへ行ったが、兄たちも羊の群れもいなかった。野原を探しまわっていると一人の人物に出会った。こういう人たちを見なかったか、と訊くと、その人たちならドダンへ行こうといっていた、と教えられた。ヨセフは礼をいってドダンへ向かい、そこで兄たちを見附けた。
 近附いてくるヨセフを認めて、兄たちは末弟の殺害を計画した。が、長男ルベンが反対した。手を下して血を流すようなことがあってはいけない、穴の一つに投げこめばいいではないか。――ルベンはヨセフが無事で、父の許へ帰るのを望んだのであった。幸いルベンの弟たちは、長兄の提案に従った。追いついたヨセフは水が涸れた穴へ投げこまれた。
 向こうから荷物をたくさん積んだイシュマエル人の隊商が来るのが見えた。ギレアドへ行く途中の隊商だった。穴へ投げこんだままより、かれらへ売ってしまおう、と兄たちは話し合った。なにも殺す必要なんてない、かれも肉親の一人であるのに変わりはないからな。
 ――ルベンはヨセフを穴から引き上げるため、そこへ行ってみた。が、かれの姿はどこにもなかった。そこで兄弟たちは破いてあったヨセフが着ていた裾の長い晴れ着に雄山羊の血を浸け、父の許へ帰った。
 子供たちが持ち帰った血染めの着物を見て、父ヤコブはヨセフが死んだ、と思いこみ、自分の衣を裂き粗布を纏い、幾日も嘆き悲しんだ。かれが息子たちの慰めに耳を貸す気配はなかった。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」(創37:35)
 ――が、ところがどっこい、ヨセフは生きていた。ルベンが穴のところへ来る前、そこを通りかかったミディアン人の商人たちがかれを引き上げ、銀20枚でメダンから来たイシュマエル人を売り飛ばしたのである。
 イシュマエル人たちはエジプトでヨセフを売り、やがてかれはファラオの宮廷にはポティファルの所有となった。


 地名のことだけ、先に。
 第17節にあるドダンはサマリヤ地方にあった町である。なだらかな丘陵地帯で豊かな牧草地である、という。ここは後にマナセの半部族が受け取ることになる土地でもあります。
 第36節にあるメダン。これはいったいなんだろう、という登場の仕方ですよね。どこにあるのか? 本ブログではこれについて、慎重に各種文献も参照しながら、「メダンから着たイシュマエル人」という立ち位置で今回の文章を書きました。
 兄たちはやり過ぎた、と思わなかったであろうか。どれだけ妬んでいても、憎んでいても、そんなことは一つ屋根の下で生活を共にすれば、かならず起こることではないか。妬み、憎しみを悪しき行いによって成就させるのは、とても空しいことだ。そうして目の前から相手がいなくなってしまったあとに感じるのは、満足ではなく達成感でもなく、自己嫌悪や哀しみではないのか。
 自分の醜さや浅ましさ、狭さをいたく感じて、自分のしでかしたことに後悔したり自責の念に駆られたりするような気がするのだけれども。でもこれって一人のケースであって今回のように11人もの人数となると、そんな思いは周囲に呑みこまれて、妬みや憎しみは偽りの大義名分を得て正当化されてしまうのかもしれない。集団心理という奴だ。そう考えると、一人「否」の立場を貫き説得して止めさせたルベンはまともな神経の持ち主だったのかもしれない。なぜか、安堵。



 昨日11月01日は「自衛隊の日」であったそうです。LINEのニュースでそうと知り、安倍首相が自衛隊の式典や防衛大学の卒業式、被災地視察をした際などの映像とスピーチ映像を差し挟んだ、約6分弱の動画を観ました。
 航空ショーへ出掛けるのが好きなさんさんかは自衛隊容認派です。かれらの意義は過日の震災、伊豆大島や西日本の天災に見舞われた土地で、無私の精神で復興活動や救援活動、行方不明者の捜索その他知られざる行為の数々を垣間見れば明らか。
 そんなかれらの姿を見て、日本中が感謝し、その存在感と頼もしさに感銘を受け、かれらあることに誇りと安心を感じた経験をしているはずなのに、どうして未だ自衛隊は必要悪と白い目で視られてしまうことがあるのだろう。
 軍備なくして如何に国の自衛か、専守防衛か。
 自衛隊なくして平和と安心はなし。われらは改めてこの客観的事実を受け容れるべきだ。――と、こんな結びでいいでしょうか?◆

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