第1460日目 〈創世記第42章:〈兄たち、エジプトへ下る〉withみくらさんさんか、飢饉と飽食についてつらつら考えてみる。〉 [創世記]

 創世記第42章です。

 創42:1-38〈兄たち、エジプトへ下る〉
 飢饉がカナンへ及んだ頃、ヨセフはエジプトで司政者となり、かつ穀物を国民に販売する監督官を務めていた。
 或る日、ヨセフの前に父に叱咤されてエジプトへ下ってきた、ルベンやシメオン始め10人の兄たちが現れた。当時、カナンの人々もエジプトに穀物の備蓄があると知って、買い物に旅してきていたのである。
 ヨセフはすぐ兄たちに気附いたが、兄たちは目の前にいるのがヨセフとは気が付かなかった。ヨセフは知らぬ風を装ってかれらの素性を尋ね、カナンにいる家族について尋ねた(父親は生きているのか、他に兄弟はいるのか。ex;創43:7)。また、かつてかれが兄たちについて見た夢のことを思い起こした。
 お前たちは回し者に違いない、とヨセフはいった。この国の守備に手薄なところがないか、探りに来たのであろう。
 ルベン始め兄たちは否定した。「わたしどもは皆、ある男の息子で正直な人間でございます」(創42:11)と。「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました」(創42:13)と。
 それならば、とヨセフはいった。わたしはファラオの名に於いてお前たちを試す。お前たちの一人を監禁しておく。残りの者は穀物を持って家族のところへ帰れ。そのあと、末の弟を連れてここへ戻ってくるのだ。お前たちの言葉の正しさはそうやって証明される。弟といっしょでなければ再びわたしの前に出ることは許さぬ。
 兄たちは嘆き(われらは弟ヨセフのことで罰を受けているのだ。弟が助けを求めたとき、われらは耳を貸さなかった。われらはいま、あの子の血の報いを受けているのだ……!)、ヨセフは泣いた。ヨセフはシメオンを選んで縛りあげた。残りの兄たちには、命じて道中の食糧を持たせてカナンへ帰らせた。
 帰郷したかれらは父ヤコブに、エジプトでの事の次第を話した。穀物を詰めた袋からは確かにかれらが支払ったはずの銀の包みが出て来て、一家を驚かせ、かつ恐怖させた。
 ――ヤコブはいった。ヨセフもシメオンも失くしたわたしから、お前たちはいままたベニヤミンまでも失わせようというのか。「みんな、わたしを苦しめるばかりだ。」(創42:36)
 ベニヤミンを自分に任せてもう一度エジプトへ下らせてほしい、とルベンが乞うた。しかしヤコブはこの子だけは行かせるわけにはいかない、と拒んだ。「お前たちの旅の途中で、なにか不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは、この白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」(創42:38)

 続けて子を失う親の気持ちってどんなだろう。想像力を駆使しても実感まではわからない。それでもヤコブの嘆きはもっともだ、と思うし、その悲痛さはこちらにも伝わってくる。天を呪いたい気持ちなのかな、とおもうが、よくわからない。
 自分の娘たちが理不尽に、立て続けに失うことがあったら、わたくしは半狂乱になって遠近を彷徨うことになるかもしれない。能「隅田川」の鬼女の如く。亡き子を求めて鬼のような形相で街を徘徊することになるかもしれない。狂気と幻想の羽佐間を千鳥足で歩いて挙げ句にそのうちで死ぬかもしれない。なにかがトリガーとなって現実に立ち戻って子らを供養し、至って正常に生きてゆくかもしれない。子を愛さぬ親がいるとはわたくしには思えぬから、幻の向こう側にいる娘たちを探してしまうのだ。
 こればっかりは親になってみないとわからぬことですよね。……。
 ――本日のブログ原稿は一旦書きあげたものの、どうにも冗長で気に喰わぬ仕上がりだったので、翌日に仕事終わりのベローチェでコーヒー飲みながらしこしこ改稿しました。前よりは良くなったと思います。そんなの、前のものを出して来なきゃ比較できないだろうが、と仰る方々、ごもっとも。が、そんな恥さらしなものを公開する程わたくしも厚顔無恥ではないのだ。ご了解いただきたい(ふむ!)。



 飢饉の時代が訪れた。近隣の国に食糧の備蓄があると知り、そこに生存の一縷の望みを賭けて旅する人々がいる。今日読んだ創42はまさしくそうした内容でした。
 その道程は巡礼に等しく、その道中は疲弊の伴うものであったろう。砂漠の世界に於いてそれがまさしく命がけの行為であったろうか、と考えたとき、かれらを襲う嵐の烈しさ、かれらの肌を焼く日射しの強さ、皮膚に叩きつける砂粒、足許や周囲の大地の放熱によって奪われてゆく体力。そうしてなによりも飢えと渇きと困憊と。
 カナンからエジプトへ下る行為は生きて戻れぬ物語となる可能性も高かったろう。例えこれが事実に反した事柄であったとしても、だ。
 ――飽食の時代といわれて久しく、その一方で食糧危機も懸念される現代。真の意味で人口爆発が起こったとき、おそらく世界はほぼその全域で飢饉に見舞われるのかもしれない。
 そのとき、われら日本人はどうなる。地理的に孤立するこの国は輸入が途絶えたあと自給自足に耐えられるか。そんな飢饉の時代が訪れる前に、われらはいま自分にできることの第一歩として、己の食生活を見直して改めるべきところを改善し、自分の好きなもの、食べたいものが食べられて当たり前、食べ残したら捨ててしまえばいい、という幻想/驕りから目を覚ますことから始めなくてはならないのかもしれない。情けない話だが、<現代>とはそんなバロック(いびつ)な時代なのだ。
 創41:54以後で語られる飢饉の挿話は決して書物のなかの出来事ではない。われらに無関係の話でもない。寧ろそこからなにかを読み取ることが求められる挿話である。◆

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