第1470日目 〈ブログの改訂作業を始めます&映画『星座』を観ました。他〉 [日々の思い・独り言]

 ――現在ブログの改訂作業を進めています。そのため、一部閲覧できない記事もあるけれど、どうぞ事情をお酌みいただき諒としていただきたい。
 とはいえ、改訂作業がいつ終わるのか、という点については明快な回答をすることができない。というのも、今回は結構な日数分を見直し、必要な範囲で可能な限り朱筆を入れてゆくつもりだからだ。高速道路の集中工事のようにはいかないのだ。
 ただどんなブログ原稿が改訂作業の対象になっているかぐらいは、申し上げてもよいだろう。
 聖書部分に於ける明らかな誤記はもちろんだが、この度の改訂作業の矛先は専らエッセイ部分に向けられる。内容などはそのままで、表現や文章についてのブラッシュアップを主としたい。顧みて反省もするのだが、夏以降は特に雑駁で荒削り、話題の表面をなぞっただけのようなものが散見される。それらいずれも悩みのタネだった。もう少し内容を深め、それに相応しい文章、言葉、話の流れを与えたい。必然的に装いを改めたエッセイの印象は、少なくとも現在公開されているものより神韻縹渺たる作品となってくれるであろうことを、わたくしは願っている。まぁ、せめていまぐらいは大言壮語させてくれ。呵々。
 エッセイについては以上の通りだが、本音をいえば、聖書部分についても「創世記」には手を加えたい。が、これを始めると、おそらくブログ更新を2、3ヶ月は中断する羽目になる。そんなことはしたくない。なにを今更……と申される方もあろうが、改訂のためだけにブログ更新を中断することだけは避けたい、というておるだけの話だ。ご理解いただきたい。というわけで、いまは我慢して次の機会を窺っているところである。
 もうずっと以前のことだが、未知の人がコメントを寄せてくれた。どうして過去の記事を改訂するのか、改訂することをなぜ敢えて一個の記事の話題として取り挙げるのか。そのときはちょっとキザに、自分の名で書かれた文章とその内容については生涯負うべき責任があるからです、と答えた。
 が、現在はそれに加えてもう一つ、理由を述べることができそうだ。
 つまり、生きている間は恥を曝すことを厭い、死んだあとは恥を置き土産にすることを潔しとしないためである。実人生がさまざま惨めだったんだもの、せめて死後まで残る<生きた証し>、わが墓標については、能う限り傷のないものとしておきたいではないか。ダンディなブログでありたい、ハンサムなブログでありたい。それだけのことだ。わがままをいうて済まぬ。
 そんなわけで、ブログの改訂作業を始めます。いつ完了するか、目途も立たぬ状態だが、予定をすべて消化して作業がすべて終了した暁には、再びここでその旨ご報告させていただこう。ソンナコトシナクテイーヨ? 嗚呼、つれないことをいわないでほしい、君よ。

 モレスキンの手帳がそろそろ最後のページを迎えます。ポケット・サイズの新しいものを買おうと文具売り場に行くのですが、そのたび、手にはするもののレジまで運んでゆく決意が鈍ってしまう。というのも、今年の2月頃に購入したラージ・サイズのモレスキンが真新しいまま引き出しに眠っているからです。
 が、開いたページを倩眺めていると、或ることに気が付いた。手帳2ページで殆どブログ1回分の原稿料になるのではないか? これを試してみる心積もりもあって、新しいモレスキンの手帳は10ヶ月近く仕舞いこんでいたラージ・サイズを用いてみます。
 これで書くブログ原稿(の下書き)は、いったいどんな感じになるのでしょう? 無印良品のノートやノートPCで直接書くのとは、またどんな違いが? 楽しみです。

 仕事の帰り、明日まで上映の映画『星座』を観てきました。モノクロ映像がここまで似合う映画には久しくお目に掛かったことがありません。
 聾唖の女性と逃亡犯が夜の倉庫で出会い、無言の会話を交わして指や体を絡ませて踊る中盤はまさに息を呑む美しさ。堕胎の打診を医者にした友人へ向けた、どんな言葉よりも雄弁な怒りの振る舞い。どの場面を切り取っても痛ましさと切なさが同居している。ちょっと他では望めない贅沢な仕上がりの中編映画でした。
 これはもう一度スクリーンで観てみたい。本作は今月9日より上映されていたという。もっと早く公開に気附かなかった自分が恨めしい。明日、もう1回観に行きたいけれど、レイトショーになってしまうのですよね……。◆

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