第1471日目 〈映画『キャリー』を観ました。〉 [日々の思い・独り言]

 誰かに似ているんだよなぁ、と鑑賞の傍ら見覚えのある顔をあれこれ当てはめては却下しつつ観ていたのは、37年ぶりにリメイクされて現在公開中の映画『キャリー』である。キャスト、スタッフは後掲。
 ブライアン・デ・パルマ監督による1976年制作のオリジナル版と比較することさえしなければ、本作は中の上よりちょっと下のところに位置する、そこそこ手堅く演出された学園ホラーといえるだろう。1976年版と2013年版の間に特記すべき大きな差異はないけれど、長所は概ね1976年版に依拠し、短所は概ねその影響下から逃れようとしたために起こったことと想像される。
 が、それでも一つだけ2013年版に首肯するところがあった。舞台設定を2010年代の現代に置いているため、キャリーへのイジメはすこぶる醜悪で、極めて悪質である。後者についていえば、突然襲い来たった初潮に混乱して助けを求めるキャリーを、クラスメイトは生理用品を投げつけて囃し立てたり、スマホで動画撮影したに留まらず、それを行うことで発生するであろう種々の問題について考えることなく、またそれを誰も止めたりすることなく動画サイトへ被写体の実名を曝して投稿する――非常に醜悪で不快だ。
 ついキャリーに感情移入してクラスメイトたち、就中主犯のクリス(ポーシャ・ダブルデイ)に怒りを感じる一方で、一時頻繁にマスコミに取り挙げられて格好の話題となった学校の裏サイトに同級生の悪口雑言を匿名で書きこんだり、Twitter等で勤務先での悪ふざけ写真を自ら公開したりする、想像力をまったく欠いた浅薄な人々の顔なき顔が想起される。
 キャリーは普通の生活を願った。地味で誰の注目を浴びずとも普通の10代の女の子になることを望んだ。それは彼女に同情する一人のクラスメイト、スー・スネル(ガブリエラ・ワイルド)の計らいによって実現するかに見えた。が、<学校>という小さな世界に君臨するクリス率いるいじめっ子グループは、醜いアヒルの子が白鳥へ変わることを許さなかった。豚の血の洗礼はいじめっ子グループからキャリーへの宣言だ、身の程を弁えよ、という。もちろん、弁えるべきはキャリーではなくいじめっ子グループだったのだが。目には目を、歯には歯を。キャリー母娘であれば出典も意味もよくわかるであろう旧約聖書のこの言葉は、キャリーからいじめっ子グループへの報復といえるかもしれない。
 全編を通して個人的に好むのは、キャリーが自分の能力に気附き、図書館でそれについての本を借りて読み耽っては自宅で力を操る練習に余念がない、そんな何気ない場面の数々だ。確かキングの原作にもデ・パルマ監督の1976年版にも斯様な場面はなかったと記憶する(が、果たして正しかったか?)だけに、この一連のシーンは特に印象強く残っている。たいていの人が若い頃、自分には特殊な能力が備わっている/備わっていればいいな、と思うていなかったか。わたくしはそんな夢想をしたことがある。仮にそんな能力があったとして、果たして当時の自分はそれについて調べたり、いつでも力を発揮できるよう練習に励むことがあったであろうか。<否>と言下に否定する気はないが、キャリーのように自覚して行ったかどうかは疑問である。
 ただ残念だったのは、クロエ・グレース・モレッツ演じるキャリー・ホワイトが初登場のそのときから最後まで一貫して可愛らしさを発散させていた、という事実。シシー・スペイセクが演じた1976年版のキャリーは、なんというかあれだったが、だからこそプロムのシーンでの変身ぶりには思わず溜め息をつくことができたのだ。そこへ行くと、クロエのキャリーは少々のところ反則ではあるまいか、と小首を傾げざるを得ない。この愛らしきタヌキ顔の少女のどこに白鳥へ進化する必要があるのだ、そも始めてスクリーンに現れたその瞬間から白鳥ではないか。もう……。
 全般的にリメイクする必要のなかったリメイク作品の一つといえなくもないけれど、クロエのプロモーション・ヴィデオと思えばそれはそれで納得か。しかし、そこにスティーヴン・キングの名前は必要ないだろう。◆

 クロエ・グレース・モレッツ;キャリー・ホワイト
 ジュリアン・ムーア;マーガレット・ホワイト
 スー・スネル;ガブリエラ・ワイルド
 トミー;アンセル・エルゴート
 クリス;ポーシャ・ダブルデイ
 ビリー;アレックス・ラッセル
 ミス・デジャルダン;ジュディ・グリア

 監督;キンバリー・ピアース
 脚本;ロベルト・アギーレ=サカサ
 撮影;スティーブ・イェドリン

 2013 米□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。