第1480日目 〈出エジプト記第6章2/3:〈モーセの使命〉with昔の歌を聴くと理由なく情が揺すぶられるときがある――〉 [出エジプト記]
出エジプト記第6章2/3です。
出6:2-13〈モーセの使命〉
神はいった、――かつてわたしはアブラハムとイサク、ヤコブの前に現れて、当時かれらが寄留していたカナンを所有地として与えると約束した。そうしていまわたしは異邦の地で重労働に苦しむわが民の叫び声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
モーセよ、イスラエルの人々にいいなさい。主であるわたしは過酷な重労働からかれらを解放する。約束したかの地へ導き、そこを所有地としてかれらへ与える。
「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(出6:6-8)
――モーセは主にいわれた通りイスラエルの人々に語った。が、かれらは重労働に精力も意欲も削がれていたので、モーセの話に耳を傾ける余裕がなかった。
主はいった。――ファラオのところへ行き、わが民を国から去らせるよう説き伏せよ。
――モーセはこれに抗い、訴えた。同胞でさえ耳を傾けようとしないのに、どうしてファラオがわたしの話を聞き入れましょうか。わたしは唇に割礼を受けていないのです。
それでもなお主はモーセとアロンに語った、イスラエルの人々とエジプト王ファラオに関わる命令を。即ち、イスラエルの人々をエジプトから連れ出してかの地へ導け、という。
出6:14-27〈モーセとアロンの系図〉
兄弟の系図は以下の通り。
モーセとアロンの父はアムラム、母は父の叔母ヨケベド。アムラムはケハトの子で、ケハトの父はレビ。即ちヤコブ/イスラエルの息子である。アムラムもレビも137年生きた。
アロンはアミナダブの娘エリシェバを妻とし、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという子供を作った。内、エルアザルはプティエルの娘の一人を妻とし、2人には息子ピネハスが生まれた。
――主がイスラエルの人々を(部隊ごとに)エジプトの国から導き出すよう命じ、これを実行するためファラオを説得する役に任命したのは、このモーセとアロン兄弟であった。
<そのとき、かれらはわたしが主であることを知る>(出6:7)――預言書を既に読んできたわれらにはお馴染みの表現、お決まりの台詞ですね。
この言葉が記される本書と預言書の当該箇所に共通するところがあるとすれば、不従順な民に対して<御業>を示すことで、<わたし>がイスラエルの神なる主であるのを問答無用で理解させる点でしょうか。不思議とこの一言には懐かしさと畏れの念を抱かされます。
そのモーセとアロンの系図ですが、ここにはルベンやシメオン、メラリの系図も記されております。が、煩雑になるばかりと判断して省略したことをお断りしておきます。ゆえにモーセ兄弟の系図に絞って記した次第ですが、さて、ここで疑問が一つ。なぜ姉ミリアムの名が「出エジプト記」には記されず「民数記」には記されるのでしょうね?
なぜなのか、吉田拓郎の「落陽」を聴いていると自然と涙が流れてきて、やたら人生に対してハングリーになるのは? おまけに、無性に空へ向かって叫びたくなるんだ。
みやげにもらったサイコロふたつ/手の中でふれば/また振り出しに戻る旅に/陽が沈んでゆく(吉田拓郎「落陽」)◆
出6:2-13〈モーセの使命〉
神はいった、――かつてわたしはアブラハムとイサク、ヤコブの前に現れて、当時かれらが寄留していたカナンを所有地として与えると約束した。そうしていまわたしは異邦の地で重労働に苦しむわが民の叫び声を聞き、わたしの契約を思い起こした。
モーセよ、イスラエルの人々にいいなさい。主であるわたしは過酷な重労働からかれらを解放する。約束したかの地へ導き、そこを所有地としてかれらへ与える。
「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。」(出6:6-8)
――モーセは主にいわれた通りイスラエルの人々に語った。が、かれらは重労働に精力も意欲も削がれていたので、モーセの話に耳を傾ける余裕がなかった。
主はいった。――ファラオのところへ行き、わが民を国から去らせるよう説き伏せよ。
――モーセはこれに抗い、訴えた。同胞でさえ耳を傾けようとしないのに、どうしてファラオがわたしの話を聞き入れましょうか。わたしは唇に割礼を受けていないのです。
それでもなお主はモーセとアロンに語った、イスラエルの人々とエジプト王ファラオに関わる命令を。即ち、イスラエルの人々をエジプトから連れ出してかの地へ導け、という。
出6:14-27〈モーセとアロンの系図〉
兄弟の系図は以下の通り。
モーセとアロンの父はアムラム、母は父の叔母ヨケベド。アムラムはケハトの子で、ケハトの父はレビ。即ちヤコブ/イスラエルの息子である。アムラムもレビも137年生きた。
アロンはアミナダブの娘エリシェバを妻とし、ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルという子供を作った。内、エルアザルはプティエルの娘の一人を妻とし、2人には息子ピネハスが生まれた。
――主がイスラエルの人々を(部隊ごとに)エジプトの国から導き出すよう命じ、これを実行するためファラオを説得する役に任命したのは、このモーセとアロン兄弟であった。
<そのとき、かれらはわたしが主であることを知る>(出6:7)――預言書を既に読んできたわれらにはお馴染みの表現、お決まりの台詞ですね。
この言葉が記される本書と預言書の当該箇所に共通するところがあるとすれば、不従順な民に対して<御業>を示すことで、<わたし>がイスラエルの神なる主であるのを問答無用で理解させる点でしょうか。不思議とこの一言には懐かしさと畏れの念を抱かされます。
そのモーセとアロンの系図ですが、ここにはルベンやシメオン、メラリの系図も記されております。が、煩雑になるばかりと判断して省略したことをお断りしておきます。ゆえにモーセ兄弟の系図に絞って記した次第ですが、さて、ここで疑問が一つ。なぜ姉ミリアムの名が「出エジプト記」には記されず「民数記」には記されるのでしょうね?
なぜなのか、吉田拓郎の「落陽」を聴いていると自然と涙が流れてきて、やたら人生に対してハングリーになるのは? おまけに、無性に空へ向かって叫びたくなるんだ。
みやげにもらったサイコロふたつ/手の中でふれば/また振り出しに戻る旅に/陽が沈んでゆく(吉田拓郎「落陽」)◆
タグ:旧約聖書 出エジプト記