第1528日目 〈トビト記第13章:〈トビトの賛歌〉with断捨離も所詮は焼け石に水?〉 [トビト記]

 トビト記第13章です。

 トビ13:1-18〈トビトの賛歌〉
 トビトが唄った讃美の歌、――
 諸国に散らした自分の民を憐れみ、救うイスラエルの神を讃えよ。心を尽くして、魂を尽くして神に向かい、その御前で真実を行うならば、神もわれらに向き、その御顔を隠すことは最早ない。わたしトビトはこの捕囚の地で、わが身に降りかかった諸々について語り伝え、神の力の偉大なることを(祖国を失い、追われた)罪深い民へ示してゆこう。
 まだ在る同胞の国の聖なる都エルサレムの民よ、その口を開き、お前たちの神を讃えよ。そうして敬い、畏れよ。主は民の犯した罪のゆえにエルサレムを鞭打って裁く。もし正義を行うなら憐れんで救ってくれる。お前を悪意持て語り、悪し様に罵り蔑む者あれば必ずその者は呪われよう。しかしお前を敬い畏れる者あらばかれらは皆々祝福される。
 「神がすべての捕囚の民を、/お前のうちに住まわせて喜ばせ、/すべて苦しみ悩む者を、/お前の下(もと)でとこしえに愛してくださるように。」(トビ13:10)

 「お前を愛する者たちは幸いだ。/お前の平和を喜ぶ者たちは幸いだ。/お前の苦難のために心を痛める者は幸いだ。/彼らはお前のゆえに喜び、/お前のすべての喜びをとこしえに見る。」(トビ13:14)

 偽らずにいえば、「祈り」や「賛歌」の章程読むに退屈、ノートに困るものはありません。構造、内容、表現(これはどうしても日本語訳に引きずられてしまうけれど)、それらが一体となって同工異曲と感ずるがゆえであります。
 聖書を最初の書物の最初の一字から、時間だけは費やして読んできた一点については自負できる者としては、流石にちかごろこうしたものと遭遇するたび、またかよ、と独りごちて、まいったな、なんとかスルーできないかな、と溜め息を吐くのであります。勿論聖書の性質上、欠くべからざる重要な要素でありますから、なければ困るものなのですが、そうであっても食傷気味である事実に変わるところはない。
 全キリスト者はこの点、いったいどう捉えているのかしら? よう耐えられるわ、と感心します。本心からそう思います。
 それでもなにか一ヶ所でも光るものがあれば、読書もノートもじゅうぶん価値あるもの、作業へ費やした時間にもお金にも納得できるのでありますが、とできるのでありますが、本章の場合は最後に引用しておいたトビ13:14がそれに当たる。
 各々での受け止め方がどうあれ、わたくしはこの5行を、最上ではないものの上質の部類に入れられるラヴ・ソングと思う。全体に<法悦>にも近いJOYな感情が瑞々しく脈打っているように読めませんか? もしわたくしが将来、<エッセンシャル・オブ・ザ・ブック>なんてものを編むとしたら、また詩歌のアンソロジーを編纂できるなら、このトビ13:14は是非にも収めたい一篇ですね――最終稿に残るかどうか、それはまた別の話ですけれど。えへ。



 人生に必要な本は500冊あればじゅうぶんだ、というたのはたしか吉田健一であったように記憶します。
 断捨離はゆるゆると進行中ですが、本についてはやはり気持ちがぶれるところがあって、捗りませんね。今日も昼から段ボール箱にぼんぼん放りこむ予定だったのですが、処分し倦(あぐ)ねているものが10数冊あって頭を抱えている。
 吉田健一がいうように、愛着ある本、読み返す本があるに越したことはないけれど、作家単位で蔵書を残すことを基本と考えるわたくしとしては、文庫だけでそれだけの量になってしまうのですよ。
 更にもとより手を着けるつもりのまったくない幻想文学・SF小説、或いは古典文学がここに加わるので結局断捨離、断捨離というても焼け石に水なのではないか、と密かに考え始めていたりする。
 ジャンル単位、作家単位で本を手許へ残すことは挫折するダイエットへのアンチテーゼかもしれない。◆

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