第1549日目 〈マヌケにはなりたくない。〉 [日々の思い・独り言]

 現在は専らモレスキンのラージノートを原稿書きのノートに用いている旨、数日前のエッセイで触れました。これに下書き、或いは第一稿をブルーブラックの安いペンでしこしこ書いて、たいていは執筆から2、3日の間隔でパソコンで清書する。その場合、ノートに書かれた稿と本ブログにてお披露目するエッセイ(決定稿)との間に、別物と疑う程の違いは見附けられない。
 こんなとき脳裏に浮かぶのは、以前ネットで見附けてブックマークした「スティーヴン・キングが語る小説家として成功するために知るべきすべてのこと」という記事の第3項、<自己批判をする>。そこでキングは斯く語る。曰く、「もしも書き上がった原稿にあまり手を入れる必要がなかったというのなら、それはあなたが怠けた結果です。最初から正しいことができるのは神だけです」と。それに続くトドメ(?)の一言は「マヌケにはならないように」だ(http://gigazine.net/news/20101102_writing_successfully_in_ten_minutes_by_stephen_king/)。
 正直なところ、散々ノートに加除の筆を入れているわけだから、モレスキンに残るのは決定稿の前段階と呼んでよさそうなものになる。そうして帰宅後、パソコンへ向かって眠い目をこすりながらノートを基に、一太郎やPagesといったワープロソフトに清書をしてゆく。冒頭でも述べたように、ノート原稿からPCでの清書まで何日も経たないときは、殆ど大きな手を入れる必要を感じることもなく決定稿として仕上げられることができる。が、逆に何日も開いてしまったときは、ちょっと厄介だ。
 なぜ? 粗が見えてくるのだ。障りのある箇所がやたら自己主張してきて困る。そんなところにばかり目が留まってしまう。溜め息を吐きながら、赤ペンを握ることもしばしば。
 でも、たいていの場合、不備はパソコンに入力するとき発見することとなる。言い換えれば、清書と称する入力作業はいたずらに時間を消費する結果となるということだ。いちばん時間のかかったもので3時間程であった、と記憶する。そのときは聖書を読み直し、参考文献や地図に当たり直し、今一度自分の文章をすっかり改めていたりしたので、それぐらいの時間を費やすことになったのだが、かといってそれが素晴らしいものになったかというと勿論そんなことはなく、精々がさっきよりは少しマシ、という程度。
 費やす時間はそれとは較べるべくもないが、いま清書を進めている「ユディト記」ノートが近い状況にある。今月10日に書いた第1章を昨日、第2章を今日、パソコンで清書した。が、それは難渋する作業でもあった。日が経つにつれてどんどん粗が目立つ。どれほど良く書けている部分があったとしても、その粗を覆い隠してくれる程の効能はない。キングは小説の第一稿を書きあげたら、原稿はしばらく机の引き出しに隠しておくと良い、という。その間に熟成してくれればしめたものだ、と(『書くことについて』P283 田村義男・訳 小学館文庫)。
 これまで書いた小説は寝かせる時間もあった。しかし、本ブログの原稿となると寝かせる時間はあまりない。最近は滞りがちだが、いちおう本ブログは毎日定時更新を本来としている。信者でない者が聖書にまつわるブログを書くとなれば、他の信者や教会関係者たちのブログに太刀打ちできる要素があるとすれば、毎日定時更新は他との差別化を図る一つの手段だ。まぁ、時間に追われている、といえば聞こえはいいが、要するになにかを書いていなければ気が済まない性質なのでしょうね。言い訳であるのは承知している。
 日が開くと鮮度が落ちる。活きの良さを失いかけている食材を食べられるものへ仕立てるには、相応の工夫が必要だ。それが本ブログの原稿の場合、時間を掛けて徹底的に書き改めるよりない、というだけのこと。さすがに無視はできない。後々まで恥を曝したくはないのだ。そのために時間を掛けるべきときは存分に費やす。睡眠時間を削ってでも行うだけの価値は、多分ある。
 文章を書くことは、とどのつまり墓標を残すことだ。自分の墓を作るに丹精こめて過ぎることは、まるでない。◆

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