第1566日目 〈村上春樹『カンガルー日和』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 村上春樹の短編を、長編に次いで読んでいる、と過日に書きました。読むことにした、だったかな。どちらでもいい、計画は実行に移されて継続中なのだから。このエッセイの初稿を書いた時点ではまだ読んでいる最中であった短編集は、つい先程読了した(20分ぐらい前?)。
 出版された順番に読んでいるため、『中国行きのスローボート』(中公文庫)と『カンガルー日和』(講談社文庫)だけしか読み終えていないが、こうした初期短編は「!」と「?」が混在しているのがやはり魅力かもしれない。村上春樹は長編よりも短編、しかも初期作品という声が多くあるのも、充分に首肯できることであります。
 このドライな肌触り、突き放したような孤独さ、読み終えたとき胸の奥に覚える虚無感。こうしたあたりが支持される要素、選ばれる要因なのかな、と考えます。顧みればこれらの点は、短編のみならず長編についても然りで、初期作品には共通するところであるのかもしれませんね。
 『カンガルー日和』所収の作品で好きな短編は、「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」と「彼女の町と、彼女の綿羊」、「5月の海岸線」、「チーズケーキのような形をした僕の貧乏」、「スパゲティーの年に」、「図書館奇譚」の6作。「4月のある晴れた日に〜」は後に『1Q84』の原型となり、「図書館奇譚」は改稿されて装いも新たに『ふしぎな図書館』として20世紀末に刊行された。
 ここに収められた作品群を読んでいると、「4月のある晴れた日に〜」に限らずどれもこれもが、まるでこのあと長編として紡ぎ直されるのを待っているみたいだ、と思うことが多々ありました。それぞれの短編がそれなりの長さを持つ中編なり長編なりの導入部となって生まれ変わっても、いっかな不思議ではないのですね。特に「5月の海岸線」についてその思いは強くあるのであります。⎯⎯「蛍」と『ノルウェイの森』のように、「ねじまき鳥と火曜日の女」と『ねじまき鳥クロニクル』のように。そうして「4月のある晴れた日に〜」と『1Q84』のように⎯⎯。
 初期短編の幾つかは後に改稿され、或いは改題も伴って短編選集に収められています。それらを読むのは読者にとって楽しみというてよいでしょう。わたくしのように短編選集を読んでから初出時の形に触れるのは、それはそれでまた別の楽しみがあるのです。
 さて。『カンガルー日和』は読了した。このあとは『蛍・納屋を焼く・その他の短編』(新潮文庫)である。既にキーボードの横で待機中だ。いまひたすら懸念しているのは、<村上春樹作品読書マラソン>第3幕、第4幕もあるのだろうか、ということ。結構な頻度で読み返しているエッセイはともかくとしても、紀行文とノンフィクションねえ……。毒を喰らわば皿まで、を実践しましょうか。もはや諦めムードで恐縮ですが。◆

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