第1582日目 〈シューベルト、2008→2014  to y.o〉 [日々の思い・独り言]

 「毒を喰らわば皿まで」といいます。
 好きな作曲家の作品はすべて聴いてみたい。CD/LPに録音が残された作品であるならば、手を尽くしてその全作品に耳を傾けてみたい。それは音楽を愛する者なら一度は願うことではないでしょうか。
 例えばここに、フランツ・シューベルトという作曲家がいます。ベートーヴェンのすぐあとの時代に登場した人です。わたくしはこの作曲家の良い聴き手ではありませんでした。限られた数の歌曲とピアノ曲しか聴いたことがなかった。このまま、あまり深いお付き合いもないまま別れてゆくであろう、と勝手に思い込んでいた人物だったのです。
 しかし、それは思い違いでした。“その年”にわたくしは本当の意味でシューベルトに出会ったのです。
 ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(以下、LFJAJ)というイヴェントをご存知でしょうか。毎年G.Wの頃になると、東京は有楽町の東京国際フォーラムを主会場にして催されるクラシック音楽のイヴェントです。毎年1人の作曲家、或いは特定のテーマで括れる複数人の作曲家を特集して、名曲から秘曲までを取り揃えてくれるLFJAJ。“その年”、2008年に特集された作曲家は、シューベルトでした。
 この年、わたくしはスタッフとして参加、客席階で誘導係をしていました。イヴェント開催期間中はずっと同じホールを担当するのですが、そこのホールで聴いた一連のシューベルトのうち、いつまでも心に残り続けたのはバーバラ・ヘンドリックスのリサイタルでした。それを廊下ではなく来場者の介添えとして場内に入り、生で聴き得たということもあります。これには涙が出ました。流れよ我が涙。当時のわたくしの心境を説明するのに、それ以上にぴったりな言葉はありません。G.Wが終わって日常の生活が戻ってくると、すぐレコード店へCDを買いに出掛けたことは、なんとなくご想像いただけるかと思います。
 好きになった作曲家の作品を、録音のあるものならすべて聴いてみたい、と欲求する性分ゆえ、シューベルトについてもそうなるだろう、と覚悟した。覚悟と出費は常に比例するのであります。
 なのに、そうはならなかった。交響曲なら交響曲、室内楽なら室内楽、という風に各ジャンルのメジャーどころ(そこそこメジャー、メジャーかも、を含む)プラスαを一通り聴いたあと、処分を何度か繰り返して手許に残った10数枚があれば、それでもう十分だ、という気分になった。これがブラームスやチャイコフスキーだったら、己が所有欲を満たすまで際限なく拡大の一途を辿るのだろうが、シューベルトはそうならなかった。
 どうしてだろう。よくわからない。
 シューベルトについては手持ちのCD/LP、演奏をどんどん聴きこんでゆく、フランツ・シューベルトへの想いをどんどん深化させてゆく方向へ、どこかの時点で意識がシフトしたのですね。図書館で借りて気に入ったものがあればiPodに落とすというのが、せいぜいの新顔参入の機会でしょうか。
 やがて気附いたのは、このシューベルトという作曲家、実に握玩、惑溺、盲愛にかなう作品を幾つも遺してくれた人である、ということでした。わたくしにとってシューベルトを聴くという行為は、また別の意味合いもあるのですが、いまは貝のように、口を固く閉ざそうと思います。
 最後に、恥ずかしげもなく告白すれば、シューベルトはバッハ、ブラームスと並んで、わたくしにとって生涯の音楽の伴侶です。倦怠期は訪れるかもしれないけれど、忘れ去ることはない。シューベルトへの愛は、悠久の希望へ寄せる隠れた愛でもあるのです。◆

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