第1642日目 〈マカバイ記二第5章:〈空中を駆ける騎士の出現〉、〈ヤソンの攻撃と死〉他withこの願望、ピーター・ジャクソンに届け。〉 [マカバイ記・二]

 マカバイ記二第5章(アンティオコス・エピファネスのもとでの迫害)です。

 マカ二5:1-4〈空中を駆ける騎士の出現〉
 前170年、アンティオコス4世は再びエジプトを攻める準備を進めていた。
 その頃首都アンティオキアの上空では40日にわたって、金糸の衣装をまとい、槍と抜き身の剣をかざした騎兵隊の幻が現れていた。人々はこれを見て、どうかこの光景が吉兆でありますように、と願った。

 マカ二5:5-10〈ヤソンの攻撃と死〉
 アンティオコス4世崩御。そんな虚報が流れた。これを信じたヤソンは約1,000人の軍勢を集め、アンモン人の国からユダヤに侵攻、エルサレムを攻撃した。攻撃は激しく、熾烈を極めた。この町が陥落しそうになると、メネラオスは城塞へと逃げ込んだ。
 「ヤソンは同胞市民の虐殺をほしいままにした。だが、自分の同族に対して勝利を得ても、その日は実は敗北の日なのだということに気づかなかった。彼は敵の敗北を記念する碑を打ち立てることができたと思っていたが、それは同胞の敗北記念碑であったのだ。」(マカ二5:6)
 ヤソンは自分の望みを果たすことも、権力をその手に握ることもできないまま、屈辱的な逃亡生活を余儀なくされた。かれはその後、アラビアの独裁王アレタに投獄され、町から町へと逃げ隠れ、すべての人から追われ、向かったエジプトも安住の地には成らず、先祖を同じうするよしみで頼ったラケダイモン人即ちスパルタ人を頼ってかの地へ赴いたが、そのまま異境の地で帰らぬ人となった。
 「多くの人々を埋葬もせずに打ち捨てたこの男には、今や、その死を悼む者も葬式を挙げてくれる者もなく、父祖伝来の墓に納めてもらうことさえできなかった。」(マカ二5:10)
 ──律法の離反者として憎まれ、祖国とその市民の死刑執行人として忌み嫌われたヤソンは、死んだ。

 マカ二5:11-14〈アンティオコス・エピファネスの弾圧〉
 アンティオコス4世はこのヤソンの事件を、ユダヤ人による反乱であると判断した。王はすぐさまエジプトを発ってユダヤの地へ急行し、エルサレムを武力制圧した。
 と同時にシリア兵による無差別殺害が行われ、市中のユダヤ人は出会い頭に問答無用で殺されていったのである。たくさんの犠牲者が出た。丸3日間で8万人が犠牲となり、内4万人がシリア兵の剣にかかって死に、それに劣らぬ数の者が奴隷として売られていった。

 マカ二5:15-27〈神殿の略奪とエルサレムでの大量殺戮〉
 が、アンティオコス4世はその程度で気が収まる者ではなかった。かれは神聖なる神殿にずかずか入ってゆくと、血に汚れた手で祭具を取った。その手で、諸国の王が奉献したそれらの祭具を略奪したのだ。なお、王を先導したのは、律法と祖国の裏切り者メネラオスである。
 「アンティオコスはすっかり尊大になっていたために、この町の住民の罪のために主が一時的に怒られ、だからこそ彼が聖なる場所を荒らすことができたのだということを見落としていた。もし民がこれほど多くの罪にのめり込んでいなかったなら、この男といえども、かつてセレウコス王に派遣されて宝庫の調査をしようとしたヘリオドロスの場合と同じように、神殿に足を踏み入れた瞬間に、鞭打たれ、その暴挙は許されるものではなかった。
 主はこの民族のために聖なる場所を選ばれたのであって、聖なる場所のために民を選ばれたのではない。だから聖なる場所そのものも民の災いを共に分かち合い、後になって繁栄を共にした。全能者の怒りのために捨てられた聖なる場所は、偉大な主との和解が実現したとき、満ちあふれる栄光のうちに再興されたのである。」(マカ二5:17-20)
 シリア王は略奪品を携えて、アンティオキアへ帰国した。が、ユダヤ人弾圧が終わったわけではない。アンティオコス4世はそれが継続して行われるように、エルサレムには自分よりも野蛮な気性のフリキア人フィリポスを、ゲリジム山にはアンドロニコスを置き、メネラオスも同じ役として残した。かれがいちばん、同胞に対して高飛車に振る舞った。
 ──またその一方で、王はムシア人アポロニウスをエルサレムへ派遣している。アポロニウスは始めのうちこそエルサレム市民に対して友好的であったけれど、かれらが安息日を迎えるや襲いかかり、とてもたくさんのユダヤ人を殺したのだった。
 この難を逃れた者に、ユダ・マカバイがいる。かれはわずかな数の仲間と共に山野に隠れ、獣のように生活し、野草を食べた。しかし、かれらが汚れることはなかった。かれらは律法を守り、主の目に正しいと映ることを行う者だった。

 マカ一でも触れられたアンティオコス・エピファネスによるユダヤ人迫害が、本章に於いてより緻密に描写されます。それだけに読んでいて重苦しく、息苦しく、憤りと哀れを強く感じさせることになるわけですが……。
 が、それゆえにこそ、ユダ・マカバイが野伏のように卑しく暮らしたと雖も決して汚れることはなかった、というのが救いであり、希望といえるのであります。なんだかこのあたり、わたくしは『指輪物語』のアラゴルンとユダ・マカバイを重ね合わせて思うのでありますよ。
 引用したなかにある「この町の住民の罪のために主が一時的に怒られ……もし民がこれほど多くの罪にのめり込んでいなかったなら」云々は、マカ二4:10-20で読んだ、大祭司(当時)ヤソンの下で進められた、父祖の習慣を顧みることがなくなり、ギリシア風の生活習慣を取り入れ、正直であることを忘れてしまった一件を指します。それは、一時的とは雖も、不埒な者の神殿侵入を余儀なくさせるにじゅうぶんな怒りであったのでした。



 『指輪物語』といえば。今日この原稿を書く前に映画館に寄って、《ホビット》第3作目の前売り券を購入しました。早く公開されないかなぁ。来年の《スター・ウォーズ》第7話と同じかそれ以上に楽しみにしているのです。
 できればピーター・ジャクソン監督にはこのまま、『シルマリルの物語』の幾つかのエピソードを映像化してもらいたいところです。ルシエンとベレンの物語は勿論、アカルラベースの物語なども。無理かなぁ……。この願い、みんなが思ってくれていたら実現するかなぁ。◆

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