第1647日目 〈マカバイ記二第10章1/2:〈神殿の清め〉with村上春樹『TVピープル』を読みました。〉 [マカバイ記・二]

 マカバイ記二第10章(アンティオコス・エピファネスのもとでの迫害)1/2です。

 マカ二10:1-8〈神殿の清め〉
 幾多の戦闘と勝利、犠牲を経て、ようやくユダ・マカバイとその同志たちはエルサレムへ入り、都と神殿を奪還した。それは主の導きによる。
 かれらは都と神殿からギリシアの神の祭壇、像をことごとく排除した後、再奉献の儀式を執り行った。即ち、神殿を清めて新たな祭壇を築き、火打ち石で火を取り、2年ぶりのいけにえをささげ、香を焚き、燭台へ聖なる火を灯し、パンを供えたのである。斯様にして、再びエルサレムはユダヤ人の都となった。再び神殿はイスラエルの神を祀る御座となった。
 かれらは主に向かい、ひれ伏して、こう言った。曰く、──
 「主よ、わたしたちが二度とこのような災禍に陥らないように、また万一罪を犯すことがあっても、主ご自身が寛容をもって矯正し、神を冒瀆する野蛮な異邦人の手に決して渡さないようにしてください。」(マカ二10:4)
 この再奉献、神殿の清めが行われたのは前164年/第148年、第9の月、つまりキスレウの月25日である。奇しくもこの日はかつて異国人どもによって神殿が汚された日であった。
 仮庵祭に倣って、神殿の清めの儀式は8日間にわたって執り行われた。この間ユダ・マカバイは、「つい先ごろまで、けだもの同然に山中や洞穴で、仮庵祭を過ごしていたことを思い出した。」(マカ二10:6)──かれらはテュルソスや棕櫚の葉、実の付いた枝をかざして、神殿の清め、御座の清めにまで導いてくれたイスラエルの神なる主を讃える歌をうたった。
 そうしてユダ・マカバイの提案によって、キスレウの月25日は年毎の祭日として祝われることが決まった。

 ここの並行箇所は、マカ一4:36-59となります。時間が許すのなら、こちらもぜひ併せてお読みいただきたく存じます。と言うのも、並行箇所の方がより具体的に描写されている部分があるためであります。
 並行箇所を読んだときは特に触れることをしなかったと記憶しますが、神殿再奉献を行ったことを記念して、その日が祝われるようになったその祭りは、<ハヌカの祭り>です。これは21世紀になった今日でもユダヤ人社会に於いて祝われている大切な祭日の一つであるとのことです。キスレウとは今日で言えば、11月から12月にかけての時分である由。
 奇しくも神殿汚辱と同じ日に再奉献となった、とありました。それはほぼ間違いなく、アンティオコス4世エピファネスによる神殿略奪、冒瀆を指すのでありましょう。ゼウス像が祭壇に建立されたのも同じときでした。
 「マカバイ記二」第10章2/2として明日お披露目となるマカ二10:9以後は、アンティオコス5世エウパトルの御代に起こった抵抗運動、事件の数々が語られてゆきます。おこがましくも、こう述べさせていただきます……乞うご期待。



 村上春樹『TVピープル』(文春文庫)を今月3日に読了しました。3週間程リュックのなかに入っていた、と記憶します。これまで読んだ短編集ではいちばん読み応えがありました。
 本集に於いて、村上春樹の短編小説は新しいステージを迎えたように思います。これまでと異なり、ぐっ、と密度が濃くなったように感じること、しばしばだったのでありました。かつてのワン・アイデア・ストーリーめいたものから純然たる物語への昇格。──そんな風な思いなのであります。また、本書あたりから、村上短編の異質さが際立ってきたようにも感じます。
 収録作全6編のうち、どうしても「TVピープル」と「眠り」が独自の存在感を放っていて、他の作品の印象が皆無かそれに近い状態になっている。本書読了から10日以上が経ったいまでも両編に呪縛されている感は否めない。
 <それ>に遭遇する以前と以後で、主人公は自分の属していた世界が異質なものに変貌してしまっていることに気附かされる。どうにかしようと思う。が、なにもできない。なにも変えられない。新たに属することのなった世界のなかで孤独をかこち、答えなき疑問を玩び、繰り返すばかりだ。しかし、決して答えは出ないだろう。或る意味、それはとても不気味である。
 「TVピープル」と「眠り」、この2編の抱える底知れぬ不気味さは、そのまま『レキシントンの幽霊』に継承されているようであります。いまそれを読んでいて、そう思うところなのでした。◆

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