第1673日目 〈知恵の書第2章:〈神を信じない者の人生観〉with大学生協で初めてMacと出会ったこと。〉 [知恵の書]

 知恵の書第2章です。

 知2:1-24〈神を信じない者の人生観〉
 神なる主を信じようとしない、不敬虔な連衆がいる。かれらはこういう、──
 われらの一生は短く、労苦に満ちている。この世へ生まれるは偶然の出来事、終わりに訪れる死からは逃げられぬ。死ねば体は朽ちて灰になり、魂はふわふわ漂い消えてしまう。それに伴い、「我々の名は時とともに忘れられ、/だれも我々の業を思い出してはくれない。/我々の一生は薄れゆく雲のように過ぎ去り、/霧のように散らされてしまう」(知2:4)のだ。
 人生は瞬く間に過ぎてゆく。なにかをしようにも死が目前に迫ってからでは遅い。だからこそ、<いま>を楽しもう。この世の愉悦を貪り、青春の情熱を傾け、たらふく酒を飲み、香料を体にまぶして、春の花を心ゆくまで愛でて薔薇を摘み、歓楽の跡を刻んで、さあ、<いま>を楽しもう。それがわれらの本領。われらが人生の定め。
 神を信じ、敬う者を虐げよう。その貧しき者らを虐げよう。力こそ義。「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。/我々のすることに反対し、/律法に背くといって我々をとがめ/教訓に反するといって非難する」(知2:12)かれら、神を父と呼ぶ敬虔なるかれらは「我々を偽り者と見なし、/汚れを避けるかのように我々の道を遠ざかる。」(知2:16)
 そんなら、かれらの言葉がどれだけ正しいか試してみよう。かれらの人生の最期を見届けてやろう。奴らが本当に神の子ならば、相応の助けや救いがあるはずだ。かれらに暴力を振るったり、苦しみを与えてみよう。奴らはわれらに対して寛容なはずだ。尋常ならざる忍耐力を発揮して耐えるはずだ。
 「彼を不名誉な死に追いやろう。/彼の言葉どおりなら、神の助けがあるはずだ。」(知2:20)
──と。
 が、かれらは間違っている。かれらは神の御旨がいかなるものか、知らないのだ。清い生活がもたらす報いを期待することも、汚れることなき魂の受ける誉れも認められないのだ。かれらがこのことを知ってくれればいいのに。
 「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造られた。/悪魔のねたみによって死がこの世に入り、/悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」(知2:23-24)

 人生を肯定しているだけではないか。それのいったいなにが悪いのか。そんな言葉の聞こえてきてもおかしくない一章であります。
 試しに神を信じる者をイジメてみたりしようぜ。そんな発想の是非はともかくとして、ここで述べられる「神を信じない者の人生観」こそが人間本来の思考じゃないのかな。ただそれは神を信じて敬うこと、或いは、信ずる神の目に正しいと映ることを行い、神の定めた道を外れることなく歩むことと縁薄い者の考え、時代の考えなのかもしれません。
 知2:1-20は不敬虔な人の抱く考え方で、これまで読んできたイスラエル/ユダヤ民族を迫害、征服した諸民族の姿に重なる。詩137<バビロンの流れのほとりに座り>とも通じるところだ。
 これへの反対弁論というべきが、続く知2:21-5:23だ。──生も死もすべて偶然。人生の諸事はすべて空ゆえに、いまを楽しもう。信仰なんてクソ食らえ。律法なんて屁の如し。飲めや歌えや、食えや踊れや。神なるものがなんぼのもんか、試してみよう。……いちいちが真理であるなぁと妙に感心させられ、時折ひょいと「コヘレトの言葉」の文言の端々が脳裏を過ぎってゆくことでありました……。
 個人的に好きな一章。



 顧みればわたくしが初めてAppleのパソコンと遭遇したのは、大学生協でバイトしていた1990年代後半であった、と記憶します。Windows95が発売されてパソコンが一気に普及し、それまでに比べれば低価格なものが市場に現れてきた時分。そうしてWindows98がリリースされると、普及は一気に進んだ。
 大学生協でもパソコンは主力商品となりつつあり、春秋の新学期シーズンを見据えてメーカー各社のパソコンを生協価格で販売するようになった。当時のラインアップを思い出そうとすると、たとえばWindowsでは、一太郎搭載モデルとWord搭載モデルの2種類が揃えられていた。でも、デザイン的にはあまり食指を動かされるものではなかったし、ソフトがなければただの箱、という風にしか思えぬものばっかりで……。
 そんななかにお目見えしたのが、AppleのiMacである。いわゆるボンダイブルーというやつだ。これには目を見張りましたね。明らかに違いますもん。あの優れたデザイン! 丸みを帯びたボディの可愛らしさ! 本体カラーのヴァリエーション! そうしてなによりもその使いやすさ! ……正直、惚れていましたね。これ買っちゃおうかな、と思わなかったといえば嘘になる。
 でも、わたくしの購買欲はiMacを所有することを良しとしなかった。というのも、──やっぱりここで浮上するのが一太郎の存在であった。当時のiMacでは一太郎は使えなかった、と記憶する。Appleのパソコンで一太郎が使えるようになったのはそれから少しく経った頃である。しかも、その目論見は短命に終わった。それがためにわたくしはiMacを(泣く泣く)諦め、Windowsモデルに、富士通のFM-Vを人生初の個人所有パソコンとしたのだった……。
 あれから約15年。本ブログの読者ならご存じのように、わたくしはようやくMacユーザーとなった。しかも2ヶ月程度で2台持ちなんて贅沢をする身分にまでなってしまった。むろん、これはワーグナーのように必要にして切実なる贅沢であるから、特に文句の言われる筋合いもない。
 Macとの初遭遇、それはとても衝撃的で、甘酸っぱいものだった。◆

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