第1714日目 〈シラ書第1章:〈知恵の賛歌〉、〈誠実と柔和〉他with昨日の夜、がんばってしまったせいかな。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第1章です。

 シラ1:1-10〈知恵の賛歌〉
 知恵は主と共にあり、それは永遠である。知恵は他のなによりも前から存在した。悟る力もまた同様である。知恵の泉は神の言葉に等しく、知恵の歩みは永遠の掟。
 知恵あるものは主ただ一人。主が知恵を造り、価値あるものとし、自身が創造した生きとし生けるものすべての上に知恵を注いだ。すべての人々へ分に応じて知恵を分け与え、主を愛する者へ惜しみなく分け与えたのだった。
 「主を愛することこそ、輝かしい知恵。/主は、御自分を示すために、知恵を分け与え、/こうして彼らは主を見るようになる。」(シラ1:10)

 シラ1:11-21〈主を畏れること〉
 主を畏れることこそ知恵の初め。
 主を愛する者には、かれらが母の体内にいるとき既に知恵が与えられている。知恵は人々の間に揺らぐことなき基を築き、人々は何世代にもわたってそれに信頼を置く。
 主を畏れることは知恵の根源であり、罪を遠ざけ退けることだ。
 「主を畏れることは、心を楽しませ、/喜びと、幸福と、長寿をもたらす。/〔主を畏れることは、主からの賜り物、/それによって愛の道を歩むことができる。〕主を畏れる人は、幸せな晩年を送り、/臨終の日にも、主から幸福を受ける。」(シラ1:12-13)

 シラ1:22-24〈自制〉
 理由なき衝動、故なき憤りは弁解の余地なきもの。それは時として身の破滅をも招くだろう。
 主を畏れる人よ、自制せよ。
 「辛抱強い人は、時が来るまで堪え忍ぶ。」(シラ1:23)
 「彼は語るべき時が来るまで、口を慎む。」(シラ1:24)
 耐えがたきを耐えたあとは、気分が晴れてさわやかな気分を味わうことだろう。語るべき時に口を開く者は、世人からその思慮深さを讃えられ、世間に広めて伝わってゆくことだろう。

 シラ1:25-30〈誠実と柔和〉
 知恵を切望するなら主に二心持つなかれ。敬神の想いなき罪人は知恵と縁なき衆生。
 知恵を望むなら主の掟を守り、主を畏れよ。主は誠実と柔和を喜ぶ。二心あって主に近附くことなかれ。
 「人々の前で己を偽るな。/お前の口を慎むがよい。/高ぶった思いを抱くな。/さもないと、つまずいて恥をかく。/主はお前の正体を明らかにし、/会堂の中で面目を失わせる。/なぜなら、お前は畏れを持たずに主に近づき、/心は偽りに満ちていたのだから。」(シラ1:29-30)

 非キリスト者にとって<知恵>の概念、その求めるところは曖昧である。ちょっと油断すると、それまでの受け止め方が見当違いのように感じてしまうときがあるかもしれない。
 わたくしの捉えるところでは、知恵とは即ち指針であり、道標である。神なる主を知り、畏れ敬い、その前を正しく歩いて行くための。理性的道徳的な人となり、主の目にかなう正しいことを行うための。健全で心豊か、嘘偽りない人生を営んでゆくための。
 少なくともわたくしは、それを踏まえた上で「シラ書」を読む。「シラ書」を読んで感じたこと、考えたこと、思うたことを、自分の言葉で伝えてゆく。わたくしは斯く切望する。
 「シラ書」は教訓書というより格言集という方が良い。「箴言」や「コヘレトの言葉」で示された知恵がさらに熟成された教えの言葉を、本書では味わうことができる。わたくしが聖書通読以前より殊の外「シラ書」に親しめたのは、その熟成ぶりに現代に近いものを覚えたせいかもしれない。



 きのうわたくしは、柄にもなく発憤して本書序言と第1章のノートを書いた(第1章は〈誠実と柔和〉以外)。それできょうは感想を含めた残りをすばやく済ませ、第2章のノートを書いてしまおう、と張り切っていた。
 ……が、それは夢に終わった。ノートはさして迷うことなく悩むことなく書けたのだけれど、さっき皆様が読んできた(と期待する)上の感想は、何度か書き直してようやく形になった。ここに至るまで少々の時間を費やし、労働を拒む灰色の脳細胞を叱咤して鞭打った。そうしてわたくしは……力尽きた。
 もうきょうは第2章へ手を着ける体力も頭脳もない。精根尽きた。張り切りが過ぎた反動か、いまはけっこう落ちこんでいる。せめて1日分ぐらいは先行して在庫を用意しておき、気持ちに余裕を持たせたかったのだが、どうやらこれまで通りのペースで進んでゆくことになりそうである。
 「呵々」というべきか、「嗚呼」というべきか。判断しかねながら筆を擱くわたくし。◆

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