第1715日目 〈シラ書第2章:〈神への信頼〉、〈主を畏れる人たちよ〉他with8月20日のラヴクラフト聖誕祭に行けなかった者の無念と野望〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第2章です。

 シラ2:1-6〈神への信頼〉
 人々よ、主に仕え、僕となるのを望むなら、試練と向き合う準備をせよ。心を強くして試練に耐え忍び、艱難辛苦に遭っても取り乱すな。すべての試練に立ち向かって克服したらば、その者は豊かな晩年を迎えて過ごすことができるだろう。
 いついかなるときでも主に依り頼め。病気のときも貧乏なときも主に依り頼め。主の前の道をまっすぐ進み、主に望みを置け。
 「身にふりかかる艱難は、すべて甘受せよ。/たとえ屈辱を受けても、我慢せよ。」(シラ書2:4)

 シラ2:7-11〈主を畏れる人たちよ〉
 主を畏れる人々へ、私イエススは伝えたい。
 主の憐れみを待ち望め。けっして道を踏み外すな。悪習に染まるな。主を信頼せよ、必ずあなたは報われるから。
 顧みよ、これまでの歴史に於いて主を信頼した者、畏敬の心を持ち続けた者、依り頼んで呼び求めた者が、果たして主に欺かれ、裏切られ、見捨てられ、無視されたことがあっただろうか。──否! 主はわれらの罪を赦し、困難に見舞われたとき助けてくれる方。
 「主を畏れる人たちよ、主が賜るすばらしいこと、/すなわち、永遠の喜びと憐れみを待ち望め。」(シラ2:9)

 シラ2:12-14〈禍い〉
 働き者で心すなおな者、二股をかけたりしない者は幸いである。そうでない者は禍いだ。
 信念なき者に主の守りはない。忍耐なき者よ、主の裁きが行われるとき、お前はどうするのか?

 シラ2:15-18〈主を畏れる人〉
 主を畏れるということは、主の掟に背かず生きることだ。主の喜びを心掛け、常に備えをしていることだ。
 主を愛するということは、正しく主の道を歩いて行くことだ。律法を喜んで守り、主の前に自らへり下ることだ。
 かれらはいう、──
 「わたしたちは、自分を、人の手にではなく、/主の御手にゆだねます。/主の憐れみは、/その尊厳と同じく、偉大なのですから。」(シラ2:18)

 自分が読んで捉えたところをノートしてみたら、本文よりも分量が多めのものとなった。まあ、これも一つの宿命だろう。
 著者イエスス(乃至は孫)のメッセージは明確である。主を畏れ、愛する人には健やかで祝福される人生が用意されている。欺いたり、信念や忍耐を欠く者には禍いに満ちた人生が待ち構えている。それはおそらく裁きが降る時にあきらかとなろう。著者/訳者が「シラ書」に託したメッセージは揺らぐことがない。
 ちょっとここで2つの文言について註釈を。いずれもフランシスコ会訳を読んでいて目に触れた傍注に触れて、なるほど、と得心したところである。
 シラ2:2「災難のときにも、取り乱すな。」人生のさまざまな場面、状況に置ける<災難>というばかりではない。シラ2:12「二またをかける罪人は、禍いだ。」誰彼に対して、神なる主に対して、二心ある者を戒めての言葉ではない。
 本書が書かれた/翻訳された時代を思い返そう。既にギリシアが小アジアを経てシリア・パレスティナへ、或いは地中海の対岸の国エジプトへ進出、覇権を築いて版図を広げ、各地でギリシア主義化、ヘレニズム化を推し進めていた。エルサレムやアレキサンドリアも例外ではない。残留ユダヤ人(こうした言葉があるのか知らぬが)や離散ユダヤ人は父祖以来のユダヤ教とヘレニズムの間で揺れた。マカ一1:11-14を参照されよ。そこには律法に背く者、異邦人(ギリシア人)の慣習を採用する者が現れ、かつエルサレムを汚すことまでされている。
 これはユダヤ教を信じる者には災難であり、ユダヤ教とヘレニズムの間で揺れるのは二股をかけるも同然だ。フランシスコ会訳では二股は、「文字どおりには『二つの道を行く』で、神に近づいても、完全には世を捨てきれない者を指す」(P1731)という。うむ、道理だ。



 昨日(一昨日ですか)は敬愛するH.P.ラヴクラフトが生まれた日でした。1890年8月20日──124年前の米国ロード・アイランド州プロヴィデンスにて。それに合わせてわが国でもここ数年、クトゥルー神話研究家の森瀬繚とゲーム・クリエイターの朱鷺田祐介が中心になり、HPL聖誕祭を開催。今年は東京の阿佐ヶ谷で行われた由。
 敬愛すると雖も、ちょうど両氏がクトゥルー神話の本を出した頃からわたくしは徐々にラヴクラフトから遠ざかっていったので、最近の神話事情にはすっかり疎くなってしまっている。実は聖誕祭のこともあまりよく知っていなかった。この催しがあると知って、正直、行きたくてたまらなかった。しかし会社を休むことなどできようはずもなく、泣く泣く諦め、いまは主催者や参加者のブログやTwitterなど拾い読みして、無念をなだめているところである。
 今年の夏はどこへも遊びに行かなかった。オタクの祭典にも行けなかった。時間は早く過ぎてゆく。森瀬が訳したHPLの未訳作品、或いはヘンリー・S・ホワイトヘッドの短編「ボゾン」など読んでみたかったのだが……。来年は祭典にも聖誕祭にも参加するぞ。
 HPLの未訳著作はまだまだある。わたくしがそれらの日本語訳に接する機会は殆どなくなってしまった。しかし、アーカム・ハウスの書簡選集全5巻の全訳者になるのは自分である、と根拠なき自負と野望を露わにし、青春時代に執筆を志してその後棚上げ、埃をかぶったままな『H.P.ラヴクラフトについての小さなエッセイ集』の完成、出版を夢見ていることだけは変わらないのである。
 熱情は薄れることなく未だわたくしの胸のなかで燻っている。誰か、わたくしにチャンスをくれぬものか。◆

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