第1717日目 〈シラ書第3章2/2&第4章:〈貧者への施し〉、〈知恵の試練〉&〈正しく行動せよ〉with眠られぬ夜に「グスコーブドリの伝記」を聴く。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第3章2/2と第4章です。

 シラ3:30-4:10〈貧者への施し〉
 仮に、あなたがなんらかの罪を背負っていたとする。それを償いたければ、貧者、弱者への施しに励め。
 あなたは、貧しい人の生活を脅かしてはならない。物乞いをじらすな。飢えた人、途方に暮れた人には手を差し伸べて、その境遇から助けあげよ。
 孤児には父のように接し、その母には夫がするように手助けせよ。
 「好意に報いることは、自分の将来のためになる。/困難に陥ったときに、支えが与えられる。」(シラ3:31)
 「お前を呪う口実を彼に与えるな。/その人が恨みを込めてお前を激しく呪えば、/造り主は、彼の願いを聞き入れられるから。」(シラ4:5-6)
 「貧しい人の訴えに耳を傾け、穏やかに、そして柔和に、答えるがよい。」(シラ4:8)

 シラ4:11-19〈知恵の試練〉
 知恵を愛することは命を愛すること。知恵に聞き従う者は、諸国民を正しく裁く。知恵に心を向ける人は、生涯をやすらかに暮らす。
 朝まだ早い時間に起床して知恵を求める人は、心が喜びに満たされ、充実した生活になるのを実感する。
 「知恵は、最初、お前を険しい道に連れて行き、/恐れの気持を抱かせて、おじけさせる。/知恵の試練は、お前を激しく苦しめる。/知恵は、お前を信頼するまで、/数々の要求を突きつけて、お前を試みる。/だがすぐに、知恵は再びお前のもとに来て、/お前を喜ばせ、その真意を明らかに示す。/しかし、お前が道をそれるなら、/知恵はお前を見捨て、/お前が破滅していくにまかせる。」(シラ4:17-19)

 シラ4:20-31〈正しく行動せよ〉
 あなたは、<時>を正しく見極めて行動し、発言するようにせよ。それは結果的に、あらゆる悪から自分を守る手立てとなる。
 いたずらに自分を恥じるなかれ。恥というてもいろいろだ。罪をもたらす恥じらいもあれば、名誉と尊敬に値する恥じらいもある。だから、いたずらに自分を恥じて身の破滅を招くことなかれ。
 あなたは、必要なときに発言するのをためらってはならない。真理に逆らい、背くようなことを発言してはならない;自分の無知を恥じよ。愚か者や馬鹿の言いなりになったり、操られたり、使いっ走りになったりするな。
 権威ある者に頭を低くしてへりくだることがあるとしても、権力者にへつらったり追従したりするな。また、真理のためには命を賭して戦え。そのときは主なる神が共に戦ってくれる。
 私イエススはこれらの言葉を読者へ与う、即ち、──
 「自分の気持ちを裏切ってまで、他人にこびるな。」(シラ4:22)
 「罪を告白することを恥じるな。/川の流れを無理にせき止めてはならない。」(シラ4:26)
 「軽はずみな口を利くな。」(シラ4:29)
 「仕事を怠けたり、投げやりにしたりするな」(シラ4:29)
 「家の中で獅子のようにふるまうな。」(シラ4:30)
──など。

 早朝に起きて知恵を求める人は喜びに満たされる──それは古今を通じて、いわれ続けてきたことだ。修道院の生活を書いた本などを読むと、一般の生活者なら特に理由ない限り、まだ床のなかに在るだろう時刻には既に起きて祈りをささげ、あたりを清め、聖書や神学書を静かに読む人々の姿が描かれている。
 勿論、そうした生活の根拠、発端となったのが本章の当該部分である、と指摘して主張するつもりはない。しかし、いまも昔も何事によらず、早朝の活動を良しとし、徳とする点に変わるところはないのだ。ただ、早朝活動が健康にも知力にも良いのだ、とわかってはいても、なかなかそれを実行できぬままずるずると、いままでと同じ生活を繰り返してしまうのが多勢なのだけれど……。
 働いていると、正しく行動し、発言するタイミングに迷うときがある。状況ゆえにそうせざるを得なかったのだ、と弁解したり、偽ったり、自分行いを正当化してみせたりね。本章20-31〈正しく行動せよ〉に書かれたことは、たしかに文句の付けようぐらいに正しい。異論はない。が、反論はある。それは理想でしかない、と。
 われらは社会を統べる者に非ず。「シラ書」が述べることを胸のなかで忘れぬよう大切にしながらも、日々の生活に於いて多少はフシを曲げ、理想が現実に歩調を合わせるようにしてもらわねばならぬ。そういえば、夏目漱石もいうておりますな。ホラあの有名な書き出しだ。曰く、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角この世は住みにくい。」(『草枕』)
 まったく関係ない話で恐縮だが、孤児とその母に対する施しについての文言に触れて、わたくしは英国の大学教授で小説家、M.R.ジェイムズを思い出した。夫に先立たれた未亡人とその息子への手助けと交流──。



 いつの曜日であったか忘れてしまったが、いっこう寝附けず困ってしまっていた。時刻はどんどん朝をめがけて経ってゆく。時計の針の進む音が暗い部屋に響く。時折外の道路を行く車の音がする。おまけに蝉が夜半に合唱し。
 このまま眠られず出勤の時を迎えたらどうしよう。そんな不安が胸をよぎる。なに、前例に倣えば少しは眠ることができるさ。そんな楽観が不安を打ち消す。いずれにせよ問題は一つ。その時の訪れまで、なにをして気を紛らわせようか──。
 そうしてわたくしは枕許のiPodを取り、イヤフォンを耳に入れ、宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」を聴く。いったい何度目だ。
 しかしながら顧みれば、折々意識が途切れてはまた戻ることが何度かあった。ブドリの両親が森の奥へ消え、妹ネリがさらわれた場面の次は、火山の噴火によっててぐす工場が放棄される場面。赤髭の主人がオリザ畑へ石油を流して隣の畑の主と一緒に笑う場面の次は、ブドリとペンネン老技師がサンムトリ火山の頂近くの小屋で話す場面。序に申し添えれば、第7章と第8章の記憶は、これまでと同じく完全に欠けている。
 それは、わたくしにとって希望だった。記憶がない、ということは、その間は眠っていた、ということだ。そのクセ、完全に記憶を欠いた2つの章を聴き直したのだから呆れてしまう。
 わたくしは宮沢賢治を読んだことが殆どない。「銀河鉄道の夜」と「風の又三郎」だけだ。「グスコーブドリの伝記」に初めて触れたのは、2012年に上映された杉井ギサブロー監督のアニメ映画である。それに拠れば、ブドリは妹と再会することはない。懐かしの人々(?)の消息が語られることも、ない。まあ、それがますむらひろしのコミカライズに基づくゆえ、登場人物が猫になっているのはともかくとして。
 だいたいおわかりだろうか? 第7,8章を聴き直してのわたくしの驚きが。アニメの印象しかない「グスコーブドリの伝記」。結構、悲しみの伴うものだった。ところが原作では──ブドリは暴行事件がきっかけで妹ネリと再会し、訪ねていって赤髭の主人と再会も果たす。森の奥に消えた両親のことも語られる。良かった、と思うたものである。ブドリの人生は映画のように、悲痛なまでの自己犠牲に邁進してゆくばかりのものではなかった。これでようやっと原作を読める。
 ──そんな風に思うたが最後、わたくしはすっぽりと眠りに落ちた。幸福じゃ。眠られぬ夜よ、さようなら。◆

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