第1720日目 〈シラ書第7章:〈悪を行うな〉、〈友人と家族〉with村上春樹訳サリンジャー『フラニーとズーイ』(新潮文庫)を読みましたが、……〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第7章です。

 シラ7:1-17〈悪を行うな〉
 悪事に手を染めるな。あなたが悪を行わぬなら、悪があなたを襲うことはない。努めて不正とは距離を置け。不正の方からあなたを避けるようになる。
 身分不相応の地位を求めるな。虚勢を張るな、誇示するな。正義を執行できぬなら裁判官を志すな。権力者の顔色を伺っていては、公正な裁きなどできようはずがない。誰に対しても過ちを犯すな、面目を失うな。
 「過ちを二度繰り返すな。/一度の過ちでさえ、罰を免れないからだ。」(シラ7:8)
 心痛めた人を嘲笑するな。兄弟や友人に偽り事を謀るな。おお、あなたよ、「どんな偽りも口にしてはならない。/うそが身につくと、ろくなことにはならない。」(シラ7:13)──魂にこれを刻め!
 労働を厭うな。悪党や罪人の仲間になるな、かれらの悪事に手を貸すな。加担したなら、あなたには神の裁きがすみやかに行われるだろう。心に留めておけ。
 あなたは徹底して謙遜であれ。畏れを知らぬ者には火と蛆の刑罰が降る。

 シラ7:18-28〈友人と家族〉
 どんなことがあろうとも、お金のために大切な友人を裏切るようなことがあってはならない。
 「賢く良い女をめとる機会を逃すな。/彼女のもたらす喜びは、黄金にまさる。」(シラ7:19)
 あなたの下で働く誠実な召使いや尽くしてくれる雇い人を冷遇するな。賢い召使いを心から愛し、その自由を奪うようなことをするな。
 子供がいるならかれらをよく教育し、厳しく躾けて礼節を覚えさせよ。もし子供が娘なら、悪い虫が付かないよう注意しろ。大切に育てるのは当たり前だが、甘やかしたり、過保護になってはいけない。そうして然るべき時に堅実で誠実な男へ嫁がせよ。そこで親としての仕事は終わる。
 心にかなう妻は大切にせよ。気に入らぬ妻には心を許すな。
 「心を尽くして父を敬い、/また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。/両親のお陰で今のお前があることを銘記せよ。/お前は両親にどんな恩返しができるのか。」(シラ7:27-28)

 シラ7:29-31〈祭司に対する尊敬〉
 祭司を敬い、規定の献げ物を納めよ。

 シラ7:32-36〈貧しい人と悲しむ人〉
 貧しい人がいれば行って手を差し伸べよ。あなたは祝福されるだろう。
 「生きとし生けるもの、すべてに恵みを施せ。/また、死者にも思いやりを示せ。」(シラ7:33)
 あなたよ、泣く人と共に泣き、悲しむ人と共に悲しめ。かれらの悲しみをわがことのように悲しみ、かれらの苦しみや痛みをわがこととして思え。病人を見舞うのをためらうな。そうしてあなたは愛されるようになる。
 「何事をなすにも、/お前の人生の終わりを心に留めよ。/そうすれば、決して罪を犯すことはない。」(シラ7:36)

 嗚呼、と思うのだ。祭司への言及を除けば、自分を反省させるにじゅうぶんな言葉が並ぶ。「シラ書」を人生論、人生訓と呼ぶならば、本章は斯く称すにふさわしい章といえるだろう。読んで誰しも首肯するのではないか。よくわかる、という人は多くあるはずだ。それ程に本章は生活と密に結び付いている。
 ちなみにわたくしに心へ響いたのは〈友人と家族〉にて引用した2つの文章であった。──わたくしは、賢く気立ての良い少女を永遠に失った。すくなくとも、切れば血の出る肉体に魂が縛られているこの世に於いては。引用文に即していえば、喜びのもたらされることなき存在となったわけだ。まぁ、今後誰かを妻とすることはあるまいと諦念しておるし、或る意味で末期症状を呈しているのは自覚している。
 もう1つ、両親についてのところだが、……ここについてどんな付け加えるべき、言い添えるべき言葉があるだろう? あるとすれば、こんなこと、──
 親のあるうちにかれらへ恭順し、感謝の気持ちを、言葉と行いを以て現せ。どれだけ猛々しく振る舞っても、どれだけ名を高めたとしても、どれだけ人から慕われる者になったとしても、あなたはあなたの親の子であることに変わりはないのだ。
 わたくしは生前の父に殆ど孝行できなかったことを悔いている。嫁の顔を見せ、孫を抱かせられなかったことを悔やんでいる。いまの仕事に就いたこと、お陰で忙しく過ごせていることなど話せなかったことを残念に思うている。
 両親を蔑ろにして侮蔑する者に禍いあれ。



 村上春樹訳サリンジャー『フラニーとズーイ』(新潮文庫)を読みましたが、話題にする程の読後感は得られませんでした。つくづく自分がサリンジャーの文学と肌が合わぬことを、時間をかけて実感させてくれたのが精々の収穫といえようか。ゆえに訳者と原著者の間にある乖離という点について思いを馳せることも出来ないでいる。
 考えてみれば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(白水社)のときも、同じ感慨に襲われたんだっけ……。正直なところ、わたくしはサリンジャーの文学が年代や世代を超えて支持されるものとは、どうしても思えぬのですよ。あのイノセンスを、中高年になっても痛い程よくわかるなんて、どうかしているのじゃぁないかしら。それぐらいの年代になったらむしろ、サリンジャーの文学にはノスタルジーと痛ましさぐらいしか感じられなくなるのではないかな。感受性の停滞とか硬化とかいうのではなく、斯様に読み方が変化していなければならないのでは?
 わたくしぐらいの世代から下の人々は、サリンジャーを読むことなど殆どなくなった世代でもある。極少数の能動的読書家の卵が背伸びして『ライ麦畑でつかまえて』(白水社)を手にする。これをすり切れる程開いてページを繰ったり、まるでホールデンを自分の分身のように感じて日夜寝食を忘れて読み耽ったり、そのなかに生きたといえる経験を持つ者が、わたくしと同じ世代、或いはわたくしより下の世代に、果たしてどれだけいただろう。10代の頃に握玩の書物とし得た者こそが、中高年になって再読してもノスタルジーや痛ましさとは無縁の読後感を持つことが出来る数少ない、しあわせなサリンジャー読者であるのかもしれない、と思う。
 わたくしは……たぶん今後もサリンジャーのよき読者ではあり得ぬだろう。<好き>と<愛する>ことは次元も質も異なる要素らしい。うぅん、難しいね。◆

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