第1723日目 〈夢物語には終わらせたくない──かつて秋成に入れ揚げた男の弁。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 最近H.Mの最新短編集は読んでいない。週末、ずっと家にいるときもだ。なぜ? 奇妙なまでの億劫を感じるのだ。手がどうしてもそちらへ伸びない。意欲高まり読書を実行しようとするや、たちまち萎えて放棄する。もしかすると、本書を以てH.Mの未読の小説が最後になり、これを読み終えてしまうと新作が発表されるまでお預けを喰らうためかもしれぬ。一種の淋しさから、読了を一日でも先延ばしにしたい。そんな感情が働いていないといえば嘘になろう。
 H.Mの短編集を読んでいない代わり、ではなにを読むのか、読んでいるのか、というと、実はリュックにしまったままな『雨月物語』である。描かれる情念への一途さ、凄まじさに感嘆し、技巧をめぐらせた冷徹な文章に嗟嘆し、けっして自分が辿り着けぬ文学の極北に坐す上田秋成の傑作に嫉妬する。──近代以前の作物と雖もこれほどに打ちのめされ、満身創痍となりつつなお仰ぎ見る文学なぞ、おいそれとあるものではない。
 この数日、『雨月物語』を読んでふと、各編の現代語訳でも作ってみようか、と思うたりする。「吉備津の釜」だけは20代後半に現代日本語へ<翻訳>したことがあるけれど、他の作品も合わせて、いつか機を捉えて連日投稿してみようかな、と企む。勿論、古文から現代文へ、同じ日本語からの翻訳とはいえ、一日でそれができあがるわけはないから、本ブログの原稿と並行して地道に、誰にも知らせることなく仕上げてゆく必要はあるけれど。
 わたくしはかつて母校の教壇に立って近世文学を受け持ち、その任にある間は芭蕉や西鶴あたりは簡単に触れるに済ませて、あとは専ら秋成の著作の講読と研究、秋成とも密に結びつくジャンルながら研究のやや遅れている感のある国学と、和歌・漢詩に絞った韻文学を研究して象牙の塔にこもる強い希望があった。それはほぼ現実のものとして目の前にあったが、さる事情ありて諦めた。
 かといって、秋成の文学へ背を向け、永遠に訣別したわけではない。もし別れを告げていたら、未だ国書刊行会版と中央公論社版の秋成全集や『雨月物語』の影印本、研究書など一冊も売り払うことなく架蔵しているわけがない。これらを頼りに再び秋成の著作を読み耽り、訳したり註したり、紹介の筆を執ってみよう。これが引退したあとの、文学にまつわるもう一つの夢である。自由に、気儘に、折に触れて……。
 そのための第一歩は既にある「吉備津の釜」を改訳し、『雨月物語』全編の現代語訳に着手すること。続けて、自戒をこめて、かれの処女作『諸道聴耳世間猨』を。そのあとは、まるでなにも考えていない。呵々。
 いつか希望を形にしたい。実現するのが先か、寿命が尽きるのが先か。それはとんとわからぬことだけれど、希望を希望のままでだけは終わらせない。すくなくとも、実現できるように力を尽くそう。世俗の幸福を諦めたのだもの、せめてこちらの希望だけは実現させたいよ。◆

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