第1724日目 〈シラ書第9章:〈女性について〉&〈人間関係〉with書けなくなって困ったこと?〉 [シラ書〔集会の書〕]
シラ書第9章です。
シラ9:1-9〈女性について〉
妻を愛するなら猜疑心を捨てよ。焼きもちは妻にあなたを攻撃させる材料となる。
妻以外の女に心を移すな。自堕落な女にかかわるな。場末の女と親しくなるな。彼女らはあなたを罪に染めるだろう。
初心を装う田舎娘を見るな、それと喋るな。あなたの一挙一動、発言のすべては、あなたを罪人へ仕立てあげる材料にされる。その取り巻き衆に気を許すな、心を許すな。彼女らのことは放り棄て、その影に悩まされるな。案ずるな、やがて大きな力が田舎娘と取り巻き衆の上に臨み、怒りの裁きが降るから。
娼婦に溺れて財産を失うな。眉目秀麗な女からは目をそらせ。美しい人妻に惚れるな。手練れな女、美しい女は身を滅ぼす。性悪、鮪女、醜女、がさつ者に捕まって身を持ち崩す男はそうはいない。
「結婚した女とは同席するな。/また、彼女と酒を酌み交わして、楽しむな。/心が彼女に奪われ、/愛欲にたぎる血で身を滅ぼさないとも限らない。」(シラ9:9)
シラ9:10-18〈人間関係〉
新しい友人よりも古い友人をこそ大切にせよ。昔からの友人との付き合いは古酒のように濃密で味わい深い。
罪人や信仰なき人の成功を羨むな。それは所詮一時的なもの、到底祝福されるものではない。邪知暴虐な権力者からは努めて距離を置け。そうすれば死の恐怖におののくことはない。あなたは自分が、常に壁の上を歩いて敵から狙われている身と知れ。
口を慎め。口数多き者は嫌われる。軽口の者は恨まれる。
隣人を見極め、知恵ある人を相談相手とせよ。語り合うなら聡明な人、話題は専ら主の律法についてとせよ。食事を共にするなら正しい人を相手とせよ。
「職人はその作品によって称讃され、/知恵ある為政者は、/その言葉によって称讃される。」(シラ9:17)
読むに慎重、書くに慎重とならざるを得ない章であった。私情、私憤を抑えながら、ようやく公にできる原稿が書けた。
くだくだしい感想は控えて、疑問点を一つだけ。
ヘブライ語やギリシア語でどのような単語が用いられているか知らぬが、第4節「歌い手」は英語の聖書ではそのまま「singer」となっている。女性の歌手というのは古代に於いては卑しい職業の一つであったため、ここでは斯く説かれているのだろう。新共同訳では、「女の歌い手となじみになるな。/彼女の手中に陥らないともかぎらない」という。フランシスコ会訳では、「女の歌い手となれなれしくするな。/彼女の手管にはまるかもしれないのだから」という。
たしかにヘブライ語でもギリシア語でも、ここは「(女性の)歌手」という意味の単語なのだろう。が、「歌手」なる訳語だとどうしてもステレオ・タイプの画一的なイメージが強くて、本節には相応しくない。ここにはもう少しふくらみのある単語を選んでみた方が良い。たとえば本稿では「場末の女」としてみた。歌い手というところにこだわるなら、「芸妓」とするのがより似つかわしい。
一個の文芸作品として聖書を読んでいると、訳語の平板な点に嘆息することがしばしばある。が、生活のさまざまな場面に溶けこんだ教典として読んだときは、黙読しても音読しても、見ても聞いても話しても、すぐ理解できる言葉でなくてはなるまい。異なる性質の板挟みに悩む日本語訳ならではの葛藤といえるやもしれぬ。
日々、400字詰め原稿用紙4枚分を目処に文章を書いて、本ブログに掲載しています。1600字程度のものでも書き終わる頃には疲れ切っています。もうなにもしたくない。残りの時間はだらだらと、ぐうたらして過ごすだけにする。そう堅く誓って、実際その通りになっています。
が、こうした短いとも長いともいいがたい分量の原稿でも、3日分をまとめて書いてパソコンで清書すると、心理的にも体力的にもきついものがある。次に原稿に向かう気持ちを奮い立たせるのに難儀するのですね。エッセイを或る程度の文字数にするためには、相応の時間をかけて寝かせておくか、或いは一発勝負で決定稿をあげるぐらいの気合いで挑むか、のいずれかです。
が、幸いとエッセイの原稿が書けなくなって本格的に困った、という覚えはありません。井戸の水を毎日汲んでいれば涸れることはない、より豊かな水量になったり質の良い水が供されるようになる、となにかの本で読んだことがあります。毎日なにか書いていれば、自ずと新稿の準備がされてゆくのと同じでありましょう。
でも、毎日パソコンのキーボードを叩いている割には、ブラインド・タッチを習得できないのは、なぜなのでしょうね?◆
シラ9:1-9〈女性について〉
妻を愛するなら猜疑心を捨てよ。焼きもちは妻にあなたを攻撃させる材料となる。
妻以外の女に心を移すな。自堕落な女にかかわるな。場末の女と親しくなるな。彼女らはあなたを罪に染めるだろう。
初心を装う田舎娘を見るな、それと喋るな。あなたの一挙一動、発言のすべては、あなたを罪人へ仕立てあげる材料にされる。その取り巻き衆に気を許すな、心を許すな。彼女らのことは放り棄て、その影に悩まされるな。案ずるな、やがて大きな力が田舎娘と取り巻き衆の上に臨み、怒りの裁きが降るから。
娼婦に溺れて財産を失うな。眉目秀麗な女からは目をそらせ。美しい人妻に惚れるな。手練れな女、美しい女は身を滅ぼす。性悪、鮪女、醜女、がさつ者に捕まって身を持ち崩す男はそうはいない。
「結婚した女とは同席するな。/また、彼女と酒を酌み交わして、楽しむな。/心が彼女に奪われ、/愛欲にたぎる血で身を滅ぼさないとも限らない。」(シラ9:9)
シラ9:10-18〈人間関係〉
新しい友人よりも古い友人をこそ大切にせよ。昔からの友人との付き合いは古酒のように濃密で味わい深い。
罪人や信仰なき人の成功を羨むな。それは所詮一時的なもの、到底祝福されるものではない。邪知暴虐な権力者からは努めて距離を置け。そうすれば死の恐怖におののくことはない。あなたは自分が、常に壁の上を歩いて敵から狙われている身と知れ。
口を慎め。口数多き者は嫌われる。軽口の者は恨まれる。
隣人を見極め、知恵ある人を相談相手とせよ。語り合うなら聡明な人、話題は専ら主の律法についてとせよ。食事を共にするなら正しい人を相手とせよ。
「職人はその作品によって称讃され、/知恵ある為政者は、/その言葉によって称讃される。」(シラ9:17)
読むに慎重、書くに慎重とならざるを得ない章であった。私情、私憤を抑えながら、ようやく公にできる原稿が書けた。
くだくだしい感想は控えて、疑問点を一つだけ。
ヘブライ語やギリシア語でどのような単語が用いられているか知らぬが、第4節「歌い手」は英語の聖書ではそのまま「singer」となっている。女性の歌手というのは古代に於いては卑しい職業の一つであったため、ここでは斯く説かれているのだろう。新共同訳では、「女の歌い手となじみになるな。/彼女の手中に陥らないともかぎらない」という。フランシスコ会訳では、「女の歌い手となれなれしくするな。/彼女の手管にはまるかもしれないのだから」という。
たしかにヘブライ語でもギリシア語でも、ここは「(女性の)歌手」という意味の単語なのだろう。が、「歌手」なる訳語だとどうしてもステレオ・タイプの画一的なイメージが強くて、本節には相応しくない。ここにはもう少しふくらみのある単語を選んでみた方が良い。たとえば本稿では「場末の女」としてみた。歌い手というところにこだわるなら、「芸妓」とするのがより似つかわしい。
一個の文芸作品として聖書を読んでいると、訳語の平板な点に嘆息することがしばしばある。が、生活のさまざまな場面に溶けこんだ教典として読んだときは、黙読しても音読しても、見ても聞いても話しても、すぐ理解できる言葉でなくてはなるまい。異なる性質の板挟みに悩む日本語訳ならではの葛藤といえるやもしれぬ。
日々、400字詰め原稿用紙4枚分を目処に文章を書いて、本ブログに掲載しています。1600字程度のものでも書き終わる頃には疲れ切っています。もうなにもしたくない。残りの時間はだらだらと、ぐうたらして過ごすだけにする。そう堅く誓って、実際その通りになっています。
が、こうした短いとも長いともいいがたい分量の原稿でも、3日分をまとめて書いてパソコンで清書すると、心理的にも体力的にもきついものがある。次に原稿に向かう気持ちを奮い立たせるのに難儀するのですね。エッセイを或る程度の文字数にするためには、相応の時間をかけて寝かせておくか、或いは一発勝負で決定稿をあげるぐらいの気合いで挑むか、のいずれかです。
が、幸いとエッセイの原稿が書けなくなって本格的に困った、という覚えはありません。井戸の水を毎日汲んでいれば涸れることはない、より豊かな水量になったり質の良い水が供されるようになる、となにかの本で読んだことがあります。毎日なにか書いていれば、自ずと新稿の準備がされてゆくのと同じでありましょう。
でも、毎日パソコンのキーボードを叩いている割には、ブラインド・タッチを習得できないのは、なぜなのでしょうね?◆