第1729日目 〈シラ書第14章:幸いな人〉、〈生きているうちに富を活用せよ〉他withただいまスタバでWi-Fi中。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第14章です。

 シラ14:1-2〈幸いな人〉
 口を滑らせたりしない人、良心にやましいところのない人、希望を失うことのない人。こういう人たちが、幸いな人、と呼ばれる。

 シラ14:3-10〈欲深い人〉
 金勘定にうるさい人に富はふさわしくない。物惜しみする人に金銭は役に立たない。生活を苦しくしてまでお金を貯めこむ人は愚かだ、他の人のために蓄財しているに等しい。こうした人たちは自分の財産を楽しむことなどないであろう。
 「自分のことで物惜しみする人ほど/痛ましい者はない。/それこそはあなたの報いである。」(シラ14:6)
 欲深い者が善行を施すな。本性を暴露するだけだ。蓄財に耽る者は困っている人から目を背ける。他人のために自分が蓄えてきたものを使うのが嫌だから。
 貪欲な者は分相応ということを知らない。もっともっと、と欲しがり滅びる。蓄財に耽る者はパンを惜しみ、貧相な食事しかテーブルに並べられない。

 シラ14:11-19〈生きているうちに富を活用せよ〉
 身の丈に合ったお金の使い方を心得よ。主のためにはふさわしい献げ物をせよ。
 いつしか人生は終わり、死があなたを迎える。生きている間は友人に親切であれ。能う限り手を差し伸べて、富を用いて援助せよ。それは富める者の義務である。
 「与えよ、受けよ、心を楽しませよ。/陰府で楽しみをどうして求めえようか。」(シラ14:16)
 生きとし生けるものは遅かれ早かれ皆死に迎え入れられる。汝死すべし、汝死を忘るゝなかれ。血と肉である人間も、一つの世代が終われば次が興る。すべての業は朽ち果てる。人間はこれまで営々と行ってきた数々の業と共に消える。すべては消えゆく。

 「一日だけの幸せでもそれを逃すな。/良い楽しみの機会を見過ごすな。」(シラ14:14)

 シラ14:20-27〈知恵を持つことの幸い〉
 知恵のあとをたどって隣人となれ。
 子供を知恵の庇護下に置いて守れ。知恵の木陰で暑さをしのぎ、かれはその輝きに包まれてそこに宿る。

 専ら富について語られる章である。蓄財するのは構わないが、その活用には常に潔く、福を惜しむことなく分け与えるようにせよ。わたくしは本多博士に倣って楽しみながら貯金した。初めのうちは馴れぬことゆえ生活が──というより趣味代が──苦しくなったり、意志薄弱なものだから少し貯まったものへ手を出して後悔したこともある。が、或る程度の金額に達するとだんだん楽になってきた。お給料が上がったとか、そういうことではない。コツがわかったのだ。
 貯金が増えるとどうなるかといえば、「富を活用する」方法を知る。要するに使うべきときに使う、ということ。慈善事業であれ復興支援であれ、それが或る一定の金額まで貯金できた者が世界へ果たすべき役割である、と思う。勿論、見境なく羽振り良くなれ、というのではない。それはただの阿呆だ。まさしく、「自分を痛めつけて、/だれかに楽をさせようというのか」(シラ14:5)である。
 本章の趣旨からは外れるかもしれぬが、自分の生活を第一としてお金を貯めるに精出し、余裕が生まれたら他者のため善行を施せ、というのがわたくしの思うところである。
 先日からたびたび名を出す本多博士は名を本多静六、19世紀後半から20世紀なかばまでを生きた林学博士だ。いまは専ら蓄財の先達として名を知られる。渡部昇一の著書でわたくしはこの人の名を知り、断片的な知識ながら給与の1/4を天引きして蓄財し、10年ほど前に復刊された著書『私の財産告白』でその精髄を知った。また同時期に『私の生活流儀』と『人生計画の立て方』も、復刊された。これらについては改めて機会を設けて感想や紹介の筆を執るとしよう。
 ──そうして最後に一言。陰府でどうして楽しみを求められるというのか。著者イエススは理解できない。が、わたくしにはわかる。嗚呼、求めて得られる楽しみがあるのを知らぬ人は哀しい。わたくしは陰府での愉しみ、悦びを願う。それは<法悦>と呼ばれるものに他ならない。



 どうしていまのいままで使わなかったのか。テザリング初体験からこの方、ずっとiPhoneをルーター代わりに作業してきたのだが、いまになってようやく、原稿書きの主たる根城であるスターバックスが提供するWi-Fi、即ち、at_STARBUCKS_Wi2に昨日登録して、今日から使い始めているのだ。iPhoneにして間もない時分、某スタバ店舗で登録しようとしたが接続されず、そのまま放っていたというのを覚えているけれど、真相は単に面倒くさかった、というだけの様子である。
 しかし、実に快適である。テザリング初体験のときは頗る付きで感動した。今度はそれ程の感動が、ない。まぁ、Wi-Fiというものに馴染んでしまい、あって当たり前のものとして生活に溶けこんだからだろう。でもその快適さ、手軽さは、テザリングでは経験できない類のものだ。USBケーブルでつなぐ手間も、念のためiPhoneの画面を見て「インターネット接続中」なるメッセージが出ているか確かめる手間とも無縁だ。ぱかっ、とMacBookAirを開けば、もう店内のWi-Fiにつながっている。これを快適といわずになんという。
 だんだんと小説やエッセイを書く環境が変化してゆく。そのための投資はちょっと見過ごすことのできない金額だけれど、投資がじゅうぶんに作品という形で還元される。快適に、支障なく、存分に、それが利用されるのであれば、投資は無駄ではない。
 ちょっと恥ずかしいことを書いているが、これまでアナログな環境で生息していたわたくしにとって、今年になってからのツールの変化、それに伴う環境の変化には、「アメージング!」としか言い様がないのだ。その最新のものが、at_STARBUCKS_Wi2なのである。iMacの購入がすべての発端。あすこからすべてが始まった。Macは生活を楽しく変える。いまのわたくしなら、どうにかMacユーザーを名乗る最低限の資格がある……とは、やはりおこがましい台詞であろうか?
 最後に余談だが、現在MacBookAirのバッテリー残量は5%である。100%にフル充電したのは約2週間前のことだ。あれから今日まで、ほぼ毎日立ち上げていたけれど、平均1.5時間程度の利用なら、バッテリーの持ちはこれが普通なのだろうか。スタバにいるが電源席を確保できているわけではないので、みくらさんさんか、断腸の思いで今日の筆を擱く。◆

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