第1731日目 〈シラ書第15章:〈知恵の働き〉&〈人間の意思〉withドラちゃんに会ってきたよ!;映画『STAND BY ME ドラえもん』を観ました。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第15章です。

 シラ15:1-10〈知恵の働き〉
 主を畏れる人は知恵を行い、律法に精通する人は知恵を悟る。それが主を知る初めであり、主の御旨へ至る方法なのだから、当然だ。
 知恵はそれを求める人を優しく迎え入れる。英知のパン、知恵の水を、かれに与える。かれは知恵に支えられて揺らぐことがなく、知恵に身を任せて恥をかくこともない。
 「知恵は、周りの者たちよりも彼を優れた者とし、/集会で語るとき、適切な言葉を与えてくれる。/彼は楽しみを味わい、喜びの冠を受け、/その名声はいつまでも続く。」(シラ15:5-6)
 愚か者、罪人は知恵と無縁だ。主もまた自らを疎む者に知恵がどのようなものか教えることも、与えることもない。不敬虔な者、不信仰な者は、主と無縁であるのみならず、知恵とも無縁な者である。

 シラ15:11-20〈人間の意思〉
 主を信じたことも、畏れたこともない者に限って、何事かあるたび主のせいにしたがる。言語道断だ。どのように醜悪な面を曝して、そのようなことをいうのか。厚顔無恥とはこのことだ。たわ言もいい加減にしろ。
 主は、すべての忌まわしいことを嫌う。世にあふれるすべての忌まわしきこと、それは主を畏れる人にふさわしくない。
 「主が初めに人間を作られたとき、/自分で判断する力をお与えになった。/その意思さえあれば、お前は掟を守り、/しかも快く忠実にそれを行うことができる。」(シラ15:14-15)
 人間よ、いまあなたの/お前の意思が試される。主がいま目の前に水と火を置いた。さあ、欲しい方を手にするがよい。「人間の前には、生と死が置かれている。/望んで選んだ道が彼に与えられる。」(シラ15:17)
 主の示す知恵は豊穣である。主は自分を畏れる人すべてを見、かれらの行いのすべてを知る。知恵ある人々の上に主の眼差しが注がれている。
 翻って、主は一度として人間に、不信仰であれ、とは命じていない。そうするように求めてもいない。そうして、罪を犯すこと、罪を赦すことも、ない。来し方行く末変わらざりけり。

 久しぶりに主に即して知恵について語る章を読んだ気分のすることである。これまで読んできた<知恵>にまつわる事柄(なにも「シラ書」に限ったことではなく)の語り直し、というてよいかもしれぬ。が、そうはいいながらも、語られる内容の烈しさは相変わらずだ。
 人間には、意思がある。今日ならば「自由意思」というところかもしれぬが、果たしてヘレニズム化してゆくユダヤ人社会に生きる人々について、斯様な表現がふさわしいものか、わかりかねる部分があるけれど。
 ──人間の前には常に選択肢が選べるようになっている。そうしてそれを、自分の与えられた意思で摑み取ることができる。主は、人間を試す。「創世記」の頃からのお約束である。意思の在り処を見定めるために、主は人間を試す。それは或る意味に於いて命を賭すに等しい行為だ。
 とはいえ、今日を生きるわれらはそこまで真剣に目の前の選択肢について思い、考えを巡らすであろうか。人生を左右しかねないケースであっても、本気で、どちらを/どれを手を伸ばして摑み取るべきかさんざん迷って、挙げ句に他人に下駄を預ける真似をしていないか。そうでなくても、損得勘定でばかり選択肢を選んでいないか。打算やまわりの言葉に振り回されていないか。
 それを判断するための手段が、知恵である。知恵なき者は落伍せよ。知恵ある者は良き人生を歩め。



 「どうだった?」ならまだわかる。それに優って「泣いた?」という質問が多いのは、おそらくこの映画の前評判のなせる技だ。鑑賞者皆、号泣必至。映画『STAND BY ME ドラえもん』はそんな惹句で公開前から語られてきた。そのせいで、「泣いた?」なる質問が他意なく口にされるのだろうが、それが続くとこちらとしてはだんだん引け目を感じてしまうのだ──号泣するまでには至らなかったからね。
 が、それは泣かなかったことを意味するものではない。涙腺が崩壊することはなかったけれど、胸がじんわりとして、ほろり、となって、目尻に大きめの露が溜まってしまうことは、あった。でもこれはむしろ、感動しての涙というよりも、思い出を刺激されての涙、追憶の涙というべきだろう。まさしく、なにもかも皆懐かしい、というがふさわしい涙。
 CGになったドラえもんは、原作やアニメよりもずっとチャーミング。そうしてキュート。仮想現実なんて言葉では括れない圧倒的リアリティを持った「かれ」が、そこにいる。のび太や静香ちゃん、ジャイアンやスネ夫、パパとママ、先生や出来杉が、そうしてジャイ子が、アニメではお目に掛かることがかなわぬぐらい肉感的で、活き活きとした表情を見せている。CGとミニチュアで作られた背景美術にしても、「え、実写じゃないの?」と思わず目を疑ってしまうこと間違いなしの緻密さ。殊、初めてタケコプターを使って空を飛ぶのび太が体験する夜の町の凄まじさ! 一つ一つの場面に<愛>があふれている映画とは、この映画のことをいう。
 それにしてもドラちゃんはやっぱりかわいいですね。すぐそこにいて、手を伸ばせば触れそうな生々しさ。ひょい、と隣を向いたらそこにいて、美味しそうにどら焼きを頬張っているような親しみやすさ。その丸い頭をハグしたら、じわじわとこちらの心をやわらかくしてくれそうな、あたたかさ。映画のなかのドラえもんは、生きている。いつスクリーンの向こうから秘密道具を使ってこちら側にやって来てもおかしくない。映画のなかのドラちゃんは生きている。
 ドラえもんはわれらが物心ついた頃から、さも当たり前のようにそこにいる。かれはのび太たちだけでなく、われら全員の記憶のなかに住む、すこしふしぎなロボット。ドラえもんたちのいない世界はどれだけ味気なくて、息苦しいことだろう。そんな世界、想像したくない。◆

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