第1737日目 〈シラ書第18章2/2&第19章:〈自制せよ〉、〈無駄口を叩くな〉他with床抜けまであとどれぐらい?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第18章2/2と第19章です。

 シラ18:30-19:3〈自制せよ〉
 欲望に負けるな。情欲を制御しろ。快楽に溺れるな。借金してまで愉しみに耽るな。それは愚か者のすることだ。
 酒癖の悪い労働者が億万長者になることはない。小さなことを大切にしない者は、必ずわが身を持ち崩してゆく。
 「酒と女は、聡明な人の思慮を奪い、/娼婦に溺れる者は、/ますます向こう見ずな人間となる。」(シラ19:2)こうした輩が手にするのは腐敗と蛆虫。心を自制できぬ者は必ずわが身を破滅させる。

 シラ19:4-12〈無駄口を叩くな〉
 心浅はかにして愚かなるは、よくよく相手を吟味することなく信じる者、罪を犯して悪を愉しむ者ども。
 口を慎む者は平穏に暮らし、無駄口を厭う人は心の負担が軽い。
 「友人について、また敵について、何も語るな。/罪とならない限り、人の秘密を明かすな。」(シラ19:8)
 他人について聞いた事柄は、自分の腹のなかに収めておけ。だいじょうぶ、それがあなたを苦しめることはない。が、愚か者は違う。かれはひどく苦しむ。他人の秘密を耳したら、たとい噂であっても誰彼に話さずにはいられなくなるから。

 シラ19:13-19〈うわさは問いただせ〉
 友人や隣人が噂の渦中にあるようなら、相手のところへ行って真相を問い質すことだ。噂は、根も葉もない、根拠なきものかもしれない。相手は実際のところ、噂になるようなことは何一つしていないかもしれない。だからあなたは噂など信じず、真相を知るまではまともに取り合わぬことだ。

 シラ19:20-30〈知恵とずる賢さ〉
 すべての知恵は主を畏れることにあり、それには律法の実践が伴う。
 勘違いするな、悪に長けることは知恵ではない。罪ある人の言葉に従うのは愚行だ。巧妙なるずる賢さ、もはやそれは違法行為である。
 闇に潜んで好機を窺う者に気をつけよ。
 未知の人でも顔を合わせて少しの間、話をしたり、或いは相手の振る舞いを見ていれば、目の前の人物がどのような属性の持ち主か、わかってくる。
 
 「理解する力では劣っていても、主を畏れる人は、/思慮に富んでいながら律法を犯す者にまさる。」(シラ19:24)

 聖書をこうして読み始める前から折に触れて、就中「シラ書」を読んで琴線に触れることたびたび、書きこみなどしてきた。〈前夜〉あたりで述べた記憶もあるけれど、今日は再びここに書く。なぜなら、今日読んだところがそのほぼ最初の箇所だからだ。
 欲望に引きずられるな。享楽に耽るな。借金してまで愉しみを求めるな。酒と女に溺れるな。口を慎め。噂に耳を貸すな。むやみと誰かについて話すな。
 ──むかしのわたくしにとってはすべてが痛い。大げさでもなんでもなく、わたくしはここを読んで遅まきながら悔い改める機会を得た。勿論、一朝一夕でそれが果たされたわけではないが。そうして現在、悔い改めの行いが完成されたわけでも当然、ない。それは生涯をかけて実施されてゆかねばならぬことだ。
 友人について敵について、なにも語るな、シラ19:8はいう。敵についてはともかく、友人について「なにも語るな」は、友なる人の風評については「なにも語るな」ということだろう。悪い話というのはふしぎなことに、本人にまで伝わる或いは本人が察知するのは思いの外速やかだ。本人の憎しみや恨みは強く、尾を引く。友情に亀裂が生じるのは時間の問題だ。実はそのことについては「シラ書」第22章で語られる──まるで相互補完のような形で。
 悪評については堅く口を閉ざし、言うべきこと、伝えねばならぬことは、本人へきちんと話す(言葉と表現を選んで)。その人についての良き事柄は、直接伝えることもあれば、本人のいないところで話題にして称讃することもある。それがわたくしのやり方だ。自分のいないところで自分が良き話題のタネになっている。すこぶる気持ち良いではないか。



 Twitterかなにかで拾ったものだが、「床抜けに必要な本の冊数」の一覧を見て、思わず、植草甚一ではないが、唸ってしまった。たとえば、6畳の部屋の床一面に本を平積みしたとき、文庫なら11,186冊で、ハードカバーの単行本なら3,721冊で床は抜ける、という。6畳の部屋は平米に換算すれば約9.90平米、その積載重量は1782㎏。
 思わず腕を組んで、空を仰いで溜め息をついてしまいたいような数字だ。そうしてわが部屋を見廻してみる。部屋は8畳ゆえに上の数字よりもう少しだけ余裕があるけれど、大差はない。改めて部屋を見廻す。今度は溜め息も出ない。苦笑いしかできない。臨界点まであと数歩、という状況を目の当たりにした者に、わが身を嘲笑する以外のなにができるというのか? 呵々すれば良いのさ? うん、そうかもね。
 日々増殖してゆく本、本、本、ついでに雑誌。こいつら、わたくしの留守中や就寝中に繁殖しているのではないか──『パラノーマル・アクテビティ』のようにヴィデオ・カメラをセットした方がいいのかな……。それはともかく、増えてゆく勢いに処分が(まったく)追いつかない。そこそこ体力のある、蔵書整理専任のメイドやお手伝いさんを募集したい気分だ。
 知り合いの、読書家の女の子に件の「床抜けに必要な本の冊数」の一覧をメールで送ったことがある。返信に曰く、わたしの蔵書は300冊くらいなのでいまのところ大丈夫そうですぅ、と。羨ましい限りだ。でも、それぐらいの量でまったく問題ないんだよな、きっと。たぶん。うん、そうなんだろう。わたくしの部屋に収まる蔵書(なんていう程大したものではないけれど)もそれぐらいに減らしたいものだ。勿論、作家単位で所蔵しているもの、ジャンルで所蔵しているものは別だ。
 ここで思い出すのは、山村修が『増補 遅読のすすめ』(ちくま文庫)で紹介している高橋たか子のエピソードだ。彼女はフランスの修道院にいた頃、「旧約・新約聖書を初めとする『霊的著作』(すべてフランス語)のみを並べた」(P121)のだそうだ。その数、50冊にも満たぬ。しかし、高橋は「これでよし、とした。これだけでも生涯かけて読んでいける中身だった」(同)という。
 これが理想の景観。本を整理して処分するものを段ボール箱に詰めるたび、この高橋たか子のエピソードを思い出す。少しでも自分の脳裏にある理想の部屋イコール本が自己主張していない部屋へ近附けられるようにしよう、と思うてみる。が、それはなかなか難しい作業で、生きている間に実現させられるかもわからない状態だ。
 溜め息しか出ない。その溜め息は、絶望の溜め息だ。苦悶の溜め息だ。諦めの溜め息だ。南方熊楠のように「討ち死にじゃぁ!」と叫びながら、ゴミ回収車に自分の手で投げこめることができたなら、それはそれで潔いのだが……。
 でも、こんなことを書いている傍ら、欲しい本がまたぞろ幾つも出てきているのだから、理想は理想、現実は現実、と割り切ってこれまで通りに過ごすしかないのかな、と笑っているわたくし。チャーリー・ブラウンの名言を引いて、本稿を終わる。曰く、グッド・グリーフ、と。◆

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