第1739日目 〈シラ書第21章:〈罪を避けよ〉&〈知恵ある人と愚か者〉withそろそろ読書に本腰を入れよう:村上春樹『象の消滅』に触れて。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第21章です。

 シラ21:1-10〈罪を避けよ〉
 あなたは罪人である。二度と罪を犯すな。過去の罪については赦しを乞え。
 あなたは罪を避けねばならぬ。往古、人間の堕落の原因を作った蛇を避けるのと同じように、あなたは罪を避けて生きなさい。うかつに近附く者に罪は噛みつき、命を奪う。
 貧しく、主を畏れる人の口から出た願いは主の耳に届き、すみやかに裁定が下される。が、罪を犯してそれへ浸かる者についてはその限りではない。
 「あらゆる不法は、両刃の剣のようなもの、/その傷は、いやすすべがない。」(シラ21:3)
 「罪人の歩む道は、平坦な石畳であるが、/その行き着く先は、陰府の淵である。」(シラ21:10)

 シラ21:11-28〈知恵ある人と愚か者〉
 律法を守る人は我欲を制し、主への畏れは即ち知恵に至る道である。
 知恵ある人の知識は、泉や井戸と同じでこんこんと湧き出でて枯れることがない。身を持するに堅い人は知恵ある人の言葉を聞くとこれを称賛、更に言葉を言い添える。集会に於いてはそうした人の言葉こそが求められ、会衆はかれの言葉を頭でなく、心のなかでじっくりと噛みしめるのだ。
 が、愚か者はそうではない。
 「愚か者にとって知恵は、/崩れた家のように役立たず、/聡明でない者の知識は。/筋道の通らない話のようにずさんである。」(シラ21:18)
 愚か者は口を大きく開けて、手足をばたばたさせて体を揺すり、あたり構わず笑い転げる。しかし、知恵ある人は笑っても物静かに微笑むばかりだ。
 愚か者は常識も礼儀もなく、他人の家にずかずか上がりこんだり、扉へ聞き耳を立てたりする。しかし、知恵ある人は他人の家に行っても戸口の前で立って待っている。ましてや聞き耳を立てるなど。
 分別ある人は言葉を吟味し、知恵ある人の口は心にある。

 わたくしも罪人である。ただ一度、過ちを犯した。赦しと救いをひたすら願い、祈った。わたくしは赦されたのか? ただ一度の過ちでさえ、こうも取り憑いて離れぬゴーストなのだから、何度も、幾つもの罪を犯した者が赦されるには、どれだけの時間と後ろめたさが課せられるのであろう。──そんな風に思うてしまう、シラ21。
 が、その一方でシラ21:1は心の重荷を幾らかなりとも減らしてくれる、一抹の希望の光をもたらす文言と思うのだ。曰く、「子よ、お前は罪を犯した。二度と繰り返すな。/過去の罪については、赦しをこいねがえ」と。



 感想のお披露目を先延ばしにしている『女のいない男たち』を読了したあと、いまわたくしは村上春樹の短編選集『象の消滅』(新潮社)を読んでいる。これはアメリカの雑誌、『The New Yorker』や『Playboy』などに掲載された短編に加えて、どの雑誌にも掲載されていない短編を選りすぐって編纂されたものだ。これの日本語版が、いま読んでいる『象の消滅』。
 読み始めてもう2週間ぐらいになる。が、いっこう読書は進んでいない。未だに「眠り」を読んでいる。これは、最初から5編目に置かれた作品だ。14日を費やしてたったの160ページ程度。わたくしはこれまでなにをしていたのか。行き帰りの電車のなかで、読む日もあった、読まない日もあった。が、数字で示された現実を突き付けられると、ずいぶんと怠惰な読書生活だなぁ、と思わざるを得ない。反省すべきだ。
 短編選集だから、当然のことながら既に読んだ作品が本書には収められている。これが自分の好みで編纂した短編選集であれば、実に愉しく読めるのだろうけれど、海彼の辣腕編集者ゲイリー・フィスケットジョンの好みが濃厚に押し出されたものであることも手伝って、読書に今一つのめり込めていないわけだ。
 ……言い訳? 勿論である。が、そもわたくしは編者の好みが色濃く出た短編選集というものが苦手だ。その人の嗜好を知るにはじゅうぶんだろうけれど、それの押し売り行為は嫌だな、と思う。北村薫と宮部みゆきが編んだ岡本綺堂『半七捕物帳』のセレクション、或いは宮部みゆきや縄田一男他が編んだ松本清張のセレクションなど、目次を一瞥して嗟嘆の溜め息を漏らしたものだった。やはり作家の短編集はオリジナル版で読みたい。旧態依然とした考えかも知れぬが、わたくしはそれが好みだ。その作家を好きな人が編纂したものであっても、正直食指は動かない。そこになんらかの新味が見られるなら、もちろん話は別だけれど……。たとえば<怪談小品>という視点で泉鏡花や内田百閒、宮沢賢治の作品群を選び直した東雅夫のセレクションなどが、その好例である。
 では、どうしてわたくしはこのような村上春樹の短編選集を架蔵していたのか。実をいえば、読書マラソンを始める以前、著者の短編集については読む気も殆どなく、かといって短編をまったく読まないというのも問題があるか、と省みて、<はじめての文学>シリーズに入る自選作品集と、『象の消滅』とそのあとにやはりアメリカで出版された『めくらやなぎと眠る女』だけは買っていたのだ。自選短編集は読書マラソンを始める前に読んだが、どうにも、ぴん、とこなかった。これに収められた「沈黙」は印象深かったが、「鏡」は非道かった──。アメリカで出された短編選集は、作品は読まず、編者と著者の前書きは読んだ覚えもあるけれど、肝心の作品はまったくで。
 しかし、月日は巡り来る。長編のすべてを今年の春に読了し、(オリジナルの)短編集すべてを今月の最初に読了した。次はノンフィクションか紀行に移ろう、と考え書架に目をやれば、どうにも無視できぬ主張の激しい色合いの背表紙が目に飛びこんできた。いうまでもなく、『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』である。内心で溜め息をついたことを、とてもよく覚えている。そうして、わたくしは短編選集を片附けてしまわねば後味が悪い、と判断し、これの消化を優先した。そうして今日に至り、まだ全体の1/3ぐらいしか読めていない。なんてこったい。
 が、編者の好みと自分の好みの相性がどうあれ、一部の短編については再読の機会を与えられた。本書所収のなかでわたくしの好むものは殆どないけれど、でも「眠り」とこのしばらくあとに置かれる「TVピープル」、そうして「沈黙」は、わたくしの好きな短編だ。まったく好みでない作品が並ぶわけではないこの短編選集。では、そろそろ本腰を入れて読書を始めよう。読書の秋だし? うむ、それはまったく関係ない。◆

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