第1741日目 〈シラ書第22章2/2&第23章1/2:〈自制を求める祈り〉、〈誓い〉&〈みだらな話〉with「今日のエッセイはお休みします」……え?〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第22章2/2と第23章1/2です。

 シラ22:27-23:6〈自制を求める祈り〉
 私の口に堅く封印してくれるのは誰か。私の思いに絶えず鞭打って自制を促してくれるのは誰か。斯様にして知恵の訓練を施してくれるのは誰か。
 ──私の過ちを容赦せず、心の罪をけっして見逃さない方ならば、私はこれ以上の過ちを犯すことも罪を重ねることもない。敵対者の手に渡されることも、敵なる者に笑われることはない。
 主よ、父よ、わが命の君よ。私にみだらな目を与えないでください。情欲を遠ざけてください。恥知らずな欲望やみだらな色欲に縁なき者でいさせてください。

 シラ23:7-11〈誓い〉
 むやみと誓いの言葉を口にするな。みだりに聖なる方の御名を口にするな。罪から清められることはけっしてないのだから。やたらと誓うこと多い者の人生は不法に満ち、鞭はその家の常備品となる。偽りの誓いをすれば、それは罪である;その罪はけっして許されず、その家は苦悩で満たされる。
 「誓いに背けば、彼はその罪を背負わねばならず、/誓いを無視すれば、二重の罪を犯すのだ。」(シラ23:11)

 シラ23:12-15〈みだらな話〉
 およそヤコブの子孫とあろう者が、死と肩を並べるような話題を口にしてはならぬ。主への信心ある者はそうした話題をいっさい退け、自らを危うくしたりしない。
 下品でみだらな話をする癖をつけるな。そうした言葉を吐くこと自体が罪なのだから。
 「下品な言葉使いに慣れきっている者は、/生涯、その癖を直すことはできない。」(シラ23:15)

 意外なことに、旧約聖書で主なる神を<父>と呼ぶ場面は多くない、という。フランシスコ会訳「シラ書」の註釈にてそうと知った。
 この呼び方は旧約と新約の時代、ちょうど著者イエススの頃から徐々に使われるようになった様子である。シラ51:10にてイエススがいうている、「わが主の父である/主を呼び求めました」と。
 さして重要ではないかもしれぬが、引っ掛かるところでもあったので、書いて留める。



 今日のエッセイはお休みです。ここだけを楽しみにしているという知己の者も数人あり、なんだなかなぁ、とぼやきたくなる心持ちなのですが、今日はどうしてもエッセイの執筆に割く時間がない。思考することも集中することもできない。とっても眠いのだ。
 昨日、やけに寝苦しくて午前3時頃に飛び起き、その後なにを思ったかシャッターを開け窓を半開にし、数十分の間岡松和夫の『断弦』を寝ぼけ眼で読んでいた。
 そのツケであろうか、仕事中は眠気を感じることはまったくなかったのだが、退勤した途端気怠さと眠気を感じて、そのままどこに立ち寄ることもしないでまっすぐ帰宅した。奇異なる出来事! そうしてどうにかこうにか本日分の原稿を書きあげ、いまこうして「今日のエッセイはお休みです」という趣旨のエッセイを書いている。……ん?
 また明日からは元気に、退勤後は寄り道してカフェ等にて原稿を書き、MacBookAirで清書して投稿し、ぷらぷら故郷の港町を縫って家に帰ろう。
 ところで。
 実は初めてradikoで番組を視聴しました。局はInterFM、「JAZZ ain't Jazz」を放送中(DJの沖野修也の喋りはどうも癖があって耳に煩わしいですね)。他にもあちこち聴いていましたが、やはり雑音なしのクリアな音で聴けるのは抗い難い魅力ですね。中高生の頃夢中になってラジオを聴いていた頃、こんな音質の放送に出会えていたらどんなにか幸福だっただろう。
 これからしばらくの間、いろいろな局を聴いてみて、全国の放送局が聴けるというプレミアム会員登録をするか考えるとします。
 ──では、いつもより短めですが、本日のエッセイ、題して「今日のエッセイはお休みします」を終わります。さて、まだ23時前だけれど、寝るか。えへ。◆

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