第1771日目 〈村上春樹『女のいない男たち』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 村上春樹の短編集『女のいない男たち』(文藝春秋)を読了、それから約2週間が経った雨降りの夕方に筆を執って、曲がりなりにも感想と呼べるぐらいの本稿を書いている。本書収載作は全6編プラス著者の前書き。うち、小説4編について本稿は語らぬ。後日、落穂拾い的に綴ることはあるかもしれないが、とりあえずいまは語るに足る作品ではないと思うゆえに脇へ置いておく。
 わたくしはこの短編集では「シェエラザード」と「木野」を推す。ことに後者を愛づ。
 「木野」は深淵を窺う作品だ。エヴリデイ・マジックを思わせる冒頭から一転、冷徹な恐怖がひしひしと主人公の木野を包みこむかのような、ダークな肌合いの短編である。後に肉体関係を結ぶことになる客の女が表舞台に登場したあたりから、作品に不穏な空気が流れ始める。神田(「神様の田んぼと書いてカミタと言います。カンダではなく」)が木野の店に現れたヤクザ風の男2人を追い払う場面を転換点として、物語は非日常の領域へ、不条理の領域へ足を踏み入れる。そうして猫が去り、蛇があたりを這い回るようになる。いよいよ妖気だ。斯様なことがあって後、神田は木野に、しばらく店を閉めてどこかへ行っているよう促し、木野は魔術にでもかかったかのように従い、西方を彷徨う。雨の降る晩、木野はなにが起きたのか、これらからどうなるのか倩思いを巡らす。そのまま、物語は幕を閉じる。
 著者の小説全般についていえることであるが、やはり村上春樹はこうした趣の小説、しかも短編がいちばん似合うのではないか。すくなくともメインストリームから少し外れたところの作品に、著者の資質じゃ最も良質な形で表れている。なにを今更いうのか、と思われる向きもあろうが、いまも昔も変わらぬ不変の事実ではある。
 ──なお、本書冒頭に置かれた「ドライビング・マイ・カー」で主人公とその妻の不倫相手が飲み交わすバー(青山の小さなバーで二人は飲んでいた。根津美術館の裏手の路地の奥にある目立たない店だった。〜P50)は、木野が経営するバー<木野>である。ちゃんと灰色のやせた猫もいる。ジャズも流れている。
 この一つ前に置かれた「シェエラザード」。この作品について抱く「好き」という感情は、物語そのものについての「好き」ではない。わたくしがこの作品で好むのは、理由も告げられぬまま<ハウス>に送られてきて、そこから外出することもなく生活する主人公羽原の姿ゆえだ。シェエラザードとのみ呼ばれる体型のゆるみきった女の語る自身の空き巣癖については好むところでない。
 外との連絡役はシェエラザードとのみ呼ばれる女性が務め、それ以外の方法で羽原が外部と接触する術はないこの無機質な世界に、わたくしの心はどうしようもなく惹かれる。このシチュエーションを徹底的に突き詰めてゆくなかで現在進行形の物語を見せてくれれば良かったのに、とさえ思う。「シェエラザード」というタイトルも設定も根本から否定することになるが、幾度読み返しても印象に変化が見られぬ以上、。
 彼女の自己語りに本作の核心があり、そこが魅力なのだ、という意見が大勢なのは承知。至極真っ当な意見だ。シェエラザードの空き巣癖の話なくして本作は成立しない。が、わたくしはその語りに鼻白む思いがして、物語に没入できないのだ。勿論、それはわたくしの偏屈である。あなたはどうだろう? well,what about you?
 本書は新聞でも報じられた「ドライビング・マイ・カー」を収める。作中人物の描写について北海道のと或る実在の町名が引き合いに出された点で、地元議員が小首を傾げるような珍なる意見を示したことで話題になり、単行本収録時に訂正することで決着を見た作品だ。初出誌と読み較べるのも一興かもしれぬが、自己満足で済む程度のものでしかないだろう。──著者前書きによれば、「イエスタデイ」についても外部からの示唆により修正の行われた箇所がある由。
 ひとまず本書を以て村上春樹のオリジナル短編集はすべて読了した。即ち、本書を以て村上春樹の、書籍化された小説作品は皆、読み終えた。次の小説が刊行されるまで、まだ1、2年はあるだろう。そう高を括って全著作読破マラソンへ切り替え、いまはアメリカで出版された短編選集『象の消滅』(新潮社)の日本語版(……)を読んでいる。あとどれだけトラックを回れば、<読破>というゴールが見えてくるのだろう。◆

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