第1799日目 〈「エレミヤの手紙」前夜with第二の人生を妻と生きる。〉 [エレミヤの手紙]

 既に「バルク書」を読む際、触れてあったように、本書「エレミヤの手紙」は新共同訳聖書では独立した書物であり、フランシスコ会訳では「バルク書」第6章となります。本ブログでは前者に従って読んでゆくのを旨とすることも、既に述べたとおりであります。
 「エレミヤの手紙」はバビロニアへ捕囚として連れてゆかれるユダの人々へ与えた手紙を載せる、単一章の書物。その内容は、かの地での偶像崇拝を固く禁じるもの。が、実際のところ「エレミヤの手紙」は戒めとか訓告というより、バビロニアの民の偶像崇拝を諷刺したもののようにだって読める。わたくしはむしろ、諷刺の色合いを濃くした訓告の散文として、本書を読みました。
 一読して印象的なのは、リフレインの効果的な使用でした。(ほぼ)同じ一節を格段の末尾に配してゆくことで、バビロニアに於ける偶像をあがめる行為の愚かさを強調している。と同時に、読み手へそれをはっきりと印象附けもする。そこには本書の著者のメッセージが直接的かつ純化された形で息附いております。
 勿論、本書の著者は前587年エルサレム陥落を目撃した預言者エレミヤではない。おそらくは、前1世紀頃、バビロニアに暮らす離散のユダヤ人の間で成立したであろう、と推測される。お馴染み、ジークフリート・ヘルマンはそう考える(『聖書ガイドブック』P193,196 教分館)。
 「エレミヤ書」に預言者がバビロニアの捕囚民に宛てて書いた手紙が載ります。かの地できちんと生活し、平安を求め、先祖の神にだけ祈り、かの地の風習に染まるな、というのがその内容(エレ29:1-23)。「エレミヤの手紙」を読んだあとで「エレミヤ書」を読み返したせいかもしれませんが、わたくしにはこの<エレミヤの手紙>から「エレミヤの手紙」までは、あとほんのわずかの距離しかない、と思うのであります。
 また、「マカバイ記・二」2:2などは「エレミヤの手紙」の存在を背後に窺わせる文言を留めます。参考までにその一節を引きます。「また、この預言者は、捕らえられてゆく人々に律法の書を与え、主の掟を忘れないよう、また金銀の偶像やその装飾を見ても心を動かされないように命じている」と。この「マカバイ記・二」も現在見るような形で成立したのは、「エレミヤの手紙」同様に前1世紀頃であろう由。
 「エレミヤの手紙」は単一章の書物(聖書の読書を始めてこのような書物は初めて!)ゆえ、正直、いつもの「前夜」のような話題をここに盛りこむことができずに悩ましく思うております。それを無視すればもう少しいろいろ書けるのですが、今度は肝心の明日に本題が不在という、まさしく隔靴掻痒の事態が生じる。さまざま煩悶した挙げ句、勇を鼓して(か?)検討していた幾つかの話題を削って本日はやや短めの「前夜」とさせていただく。ここで冷静に、いつもと同じ分量じゃない? と指摘するのは野暮である、と知ってほしい。
 ──いつもの台詞をここに綴ることはできませんが、それでは明日1日を費やして「エレミヤの手紙」を読みましょう。



 ひさしぶりのスタバにて、ただいま原稿を鋭意執筆中。
 すると、目の前のテーブル席に婚礼の相談を行う2人がいた。羨ましいというか、落ちこむというか。否、むしろ、淋しい、辛くなる、というた方が正確か。
 いまさら誰かと交際とか結婚とかあり得ないけれど、それでも斯様にしあわせな光景を目の当たりにすると、胸の引き裂かれる思いがする。嗚呼、もはや自分があの光景の主役になることはないのだな、と否応なしにわからせられるからだ。
 そうしてわたくしは夢の世界に閉じこもる(<夢は第二の人生である>というたのはHPLであったか)。
 ──いまは亡者となり給ひきあの女の子と夫婦になって家庭を築いている、本来わたくしの人生に予定されていたはずの光景を想像して、そこに身も心もなにもかも、すべてを浸して、その世界をもう一つの現実として、そこの住人として当たり前のように生活する。
 親と暮らし、子供たちと暮らし、望んだ仕事に就き、家庭を中心とした地域とのつながりあり、多少の波風はあると雖もそこそこ穏やかに日々を過ごしている。
 いまはこの世に霊魂としてしか存在しない彼女を妻に、それなりに睦まじくして生活している。小学生の時分から一緒だったのだもの、他の夫婦や恋人よりも脚色された<ラ・ヴィアン・ローズ>な人生を共に送っても罰はあたるまい。
 そんな、二度と自分が手にすることのできない幸福を目の当たりにして、わが身を取り巻く孤独にどうしようもないわびしさを痛感する。そんな、独り身である事実を突き付けられる目の前の光景。◆

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